「キネステーゼ」についてのメモ

自己意識の現象学―生命と知をめぐって (SEKAISHISO SEMINAR)

自己意識の現象学―生命と知をめぐって (SEKAISHISO SEMINAR)

新田義弘、河本英夫編『自己意識の現象学 生命と知をめぐって』(世界思想社、2005)*1から。

飯野由美子「身体構成と自己意識の可能性――カントおよびフッサールの時間論の深淵から――」(pp.31-44)。

現象学があらゆる存在者を還元し、超越論的主観性によるその構成を発生的観点から問う以上、物的対象の構成の問題はそれを知覚する身体の構成という問題を必然的に伴っている」(p.37)として、


だが、もともと現象学における身体構成の問題は、誤解を招きやすい位置にあった。フッサール現象学的還元を『省察』(Meditationes, 1641)におけるデカルトの懐疑になぞらえたために、還元によって得られる主観性とは、あたかも感性とは無関係な思考をするだけの純粋意識であるかのように受け取られたからである。だが、現象学は、感性と悟性との単純な二分法には与しない。また、現象学的還元は、あらゆる存在とともに既存の身体を一旦排除するからこそ、キネステーゼ的意識による身体構成と物の構成という音源的な問いへとわれわれを導く。ここでは、超越論的主観性とは、感性を欠いた思惟実体などではなく、自分ではないもの(物的対象)を知覚することによって自分(自分の身体)をも知覚する意識、両者の差異を産み出すことによって、物的対象と同時に身体を構成していくキネステーゼ的意識なのである。このキネステーゼ的意識こそは、抽象的な反省よりも根源的な段階での自己意識と呼んでよい。(p.37)
また、フッサールの『デカルト省察』を踏まえて;

キネステーゼ的意識は、還元の後に残る超越論的主観性と考えられるが、それのみでは自己意識は成立しないのである。キネステーゼ的感覚と、感覚与件が局在化される身体、さらにこの身体と相即的に構成される物的対象、これら三者はまさにパラドキシカルな関係にある。キネステーゼ的感覚は身体なしには感じられないが、身体が構成されるためには、キネステーゼ的機能が前提されている。しかもそれだけではなく、物的対象が構成されなければそれとの差異における身体は構成されえないし、身体が構成されなければ、それとの差異における物的対象は構成されえない。したがって――唯一考えられる解決法として――キネステーゼ的意識によって身体と物的対象が同時に構成され、その構成を介して自己意識としてのキネステーゼ的感覚が意識されるのでなければならない。それによってはじめて、“自分でないもの”を介して自己が意識される。(後略)(p.39)
デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)

フッサールの「他者論」を巡って;

(前略)フッサールの何よりの卓見は、この二種類の“自分でないもの”*2、二種類の「超越」の意味の構成を、互いに関連しあうものとみなした点である。客観世界という意味の中には私が感覚できない対象の背面の存在が含意されているということ、これは言い換えれば、私とは別の視点から私と同時に世界を知覚している匿名の主観性としての他者が想定され、この他者の指向性*3との協働によって客観的世界という意味が構成されていることを意味する。このような非主題的他者の匿名の機能を組み込むからこそ、超越論的主観性は相互主観性とみなすことができる。
(略)われわれが時間において継起する家の覚知を、ひとつの恒存的な家の知覚としてとりまとめるということは、まさに別の視点から異なる順序で知覚していく他者の視点を組み込むことに等しい。このことによって、「夢にさえ及ばない」諸表象の変易を、ある恒存的な対象の偶因的な知覚であるとみなす可能性が開かれる。非主題的他者の匿名的な機能が不可欠であると言わざるをえないのである。(後略)(pp.40-41)
「結語」から;

キネステーゼ的感覚が働かなくては身体は構成されない。身体が構成されなければ、キネステーゼ的な感覚は感じられない。そして、身体が構成されなければ物的対象は構成されない。物的対象が構成されなければ身体は構成されない。つまり、“自分でないもの”が知覚されなければ、自己は知覚されない。自己が知覚されなければ、自己ではないものは知覚されない。すべては、このような堂々巡りの循環の中にある。しかし、この循環の中に、パースペクティヴの転換を含む、したがってある意味で他者の視点と機能を含む事態(自分で自分のもう一方の手に触れる)が入り込む時、循環はもはや堂々巡りではなく、差異を生じさせる力をもつのではないか。(略)
そして、もしわれわれの考察が正しいのなら、物的対象(“自分ではないもの”)はその根源的構成においては身体として構成されたということになる。自分自身の右手で自分の左手に触れるというような状況において、はじめて「現れ」と「現れるもの」との差異が生じうるのだとすれば、後に自分の身体以外の物的対象を知覚する際も、それはまず、(他者の)可能的身体として把握されるはずである。(pp.42-43)

なお、「キネステーゼ」については、同書所収の武内大「キネステーゼと大地」では、


キネステーゼとは、ギリシャ語のキネーシス(運動)とアイステーシス(感覚)からなる造語であり、「私は私を動かす(=私は動く)(ich bewege mich)」という、運動を媒介とした自己意識を意味している。しかしそれは、己れの物体としての身体運動をあらためて意識する、といったようなものではない。われわれは普段何気なく身体を動かしており、その運動はわざわざそのつど確認せずとも、漠然とした仕方であれ、感覚されている。キネステーゼとはこのようなレベルでの自己意識、というより自己感覚を意味する。(pp.45-46)
と述べられている。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070204/1170524340

*2:物的対象と他者。

*3:志向性?