「シンタクスの不在」?

「シンタクスの不在、主体の解体 - 「シュルレアリスム展」小論」http://d.hatena.ne.jp/harsh/20110505/1304581275


曰く、


まず「シュルレアリスム」が一見して新しかったのは、「内面」なるものを「潜在意識」或いは「無意識」と置き換えたことによる。「内面」と「潜在意識」の違いは、要するに、それらと主体性との関与の仕方にある。自律した主体は「内面」を統御することができるかもしれないけれども、「潜在意識」は主体の意志とは無関係に奔出するものであり、その一種の主体性否定という位相において「シュルレアリスム」は内/外の二項対立を克服したかのように見えた。「潜在意識」を規定するのはシンタクスの解体である。たとえば雨傘とミシンを「併置」する。なぜこれが「シュルレアリスム」であるかというと、そこにシンタクスが欠けているからである。これがしばしば、オブジェをオブジェ自体として捉えるといわれることだが、雨傘とミシンが文をなすことなくただそこにある、というほどの意味である。モノを既存の文脈から切断し、単語として提示することで、文脈自体を破棄していく。同様に、「シュルレアリスム」の絵画におけるひとつの手法は、事物を「単語」レベルにまで孤立化させること、そしてそれらを脱文脈的にコラージュすることである。この作業自体を「自動的に」、つまり主体性による統御の介在しないようなやり方で(それは極度のスピードでだったり、ある種の脱自的精神状態においてであったりするのだろうが)行うことで、結果としての作品には「潜在意識」が表出する、というのが基本的な考え方である。
「併置」*1を巡って。とても興味深いが、よくわからないところもある。例えば「シンタクスが欠けている」ということ。シンタックスとは鯔のつまり語順のことであり、所謂文法の主要な要素を構成している。さて、文法の両義性。記述文法と規範文法*2。規範文法の準位では「シンタクスの不在」ということはありうる。しかし、記述文法の準位では〈崩れた〉シンタックスはあるかもしれないが、それが「不在」ということはありえないだろう。何しろ2つ以上の語があるとき、(複数の語を同時に発音できない以上)必然的に語順というものも出現してしまうのだ。
ここで、フッサールの文法論を引き合いに出そうと思ったが、その余裕なし。取り敢えず関連文献をマークしてお茶を濁しておく。


田島節夫「現代の言語理論と哲学」(in 『言語と世界』勁草書房、1973(1983)、pp.2-44、especially pp.5-13)
John D. Caputo “The Economy of Signs in Husserl and Derrida: From Uselessness to Full Employment”John Sallis (ed.) Deconstruction and Philosophy: The Texts of Jacques Derrida, The University of Chicago Press, 1987, pp.99-113
Peter Simons “Meaning and Language” Barry Smith and David Woodruff Smith (eds.) The Cambridge Companion to Husserl, Cambridge University Press, 1995, pp.106-137

言語と世界―現象学から構造の哲学へ (1983年)

言語と世界―現象学から構造の哲学へ (1983年)

Deconstruction and Philosophy: The Texts of Jacques Derrida

Deconstruction and Philosophy: The Texts of Jacques Derrida

The Cambridge Companion to Husserl (Cambridge Companions to Philosophy)

The Cambridge Companion to Husserl (Cambridge Companions to Philosophy)

「「シュルレアリスム」が一見して新しかったのは、「内面」なるものを「潜在意識」或いは「無意識」と置き換えたことによる」という。それはそうなのだろう。しかしながら、そう言って済ませてしまっていいのだろうかとも常々思っていた。これはsurrealと言葉の意味にも関わる。この言葉は一般に超現実的と訳されている。しかし、この訳語を自明なものとしていいのだろうか。それは少なからぬ日本人が薄々とは気づいていることなのではないか。超現実主義という言い方よりも片仮名書きでシュルレアリスム或いはシュールレアリスムとすることが多い。これはたんに片仮名の方がハイカラに見えるということではないだろう。surrealを超現実的と訳してしまうことへの躊躇とは関係ないのか。このsurはsurface(表面)のsurで、元々は上を意味する羅典系の接頭辞であり、仏蘭西語では英語のonに対応する前置詞でもある。ということで、surrealisme(surrealism)を表層現実主義と訳したい誘惑に駆られることが屡々ある。現象=表層の学である現象学的思考は意識についての議論を、〈深い‐浅い〉という二項対立*3から〈地‐図〉の二項対立に置き換えてしまった。地と図は常に反転可能であり、〈深い‐浅い〉という関係にはない。最近他界した某社会学者の言葉を盗めばseen but unnoticed。ちょうどポーの「盗まれた手紙」みたいに。ところで、シュールレアリスムの絵画は多様であり、誰に取り敢えず準拠するのかという問題が出てくる。つまり、サルバドール・ダリを基準にした場合、マックス・エルンストを基準にした場合、ルネ・マグリットを基準にした場合、それぞれかなり違ったシュールレアリスムの印象が生成するのではないか。そういえば、マグリットには「ヨーロッパ諸学の危機」という明らかにフッサールを意識したタイトルの作品がある。さて、「雨傘とミシン」だが、ここではこのペアが〈図〉だとすると、このありえなさそうな「併置」を可能にし・支えている解剖台が〈地〉になっている。「雨傘とミシン」を媒介する解剖台の重要性を、(シュールレアリストたちとの交遊もあった)レヴィ=ストロースが指摘していたか(『構造・神話・労働』)。
ポー名作集 (中公文庫)

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構造・神話・労働―クロード・レヴィ=ストロース日本講演集

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