模写説余波

承前*1

批評空間 (第2期第4号) 京都学派と三〇年代の思想

批評空間 (第2期第4号) 京都学派と三〇年代の思想

久野収浅田彰柄谷行人「京都学派と三〇年代の思想」(『批評空間』II-4、pp.6-33、1995)からメモの続き。


浅田 久野さんが大学に入られた頃は、おおむね知性主義偏重で、その分ナショナリズムの情念に足を掬われることもあったというお話ですが、哲学科自体に、西田幾多郎以来の、実践的・情念的主体性を強調する流れもあったのではないですか。
久野 それはその通りですが、当時の哲学科左派の唯物論だと、根源的な矛盾を含んでいるわけです。認識論のほうから言えば、はなはだ受動的で、人間の意識が鏡になって物の実相を映すという模写論だけれど、実践論のほうから言えば、環境や人間を操作し、干渉して真理を暴き出し、さらには外界と内界を積極的に変革する方法になるでしょう。マルクスにもエンゲルスにも両方の要素があって、本当の統一は、各人にまかされているのではないか。それで、認識論中心派の、認識を実践に機械的に適用させて成功させる、認識論としての弁証法とか、哲学のレーニン的段階とか言って、ソ連マルクス主義金科玉条として仰ぐ人たちに対して、京都の哲学者もマルクス主義者も、その問題でたいへん苦労をさせられていた。それで、主体と客体の関係とか、認識論としての模写説と実践論としての変革説とが一見矛盾するように見える関係をなんとかつなぎ合わせようとして、三木清、戸坂潤、船山信一、梯明秀にしても、みんな苦し紛れの綜合主義、統一主義の方向を打ち出す。「ロゴスとパトス」であるとか。その伝統は野間宏まできている。『青年の環』に出てくる哲学者のモデルは梯明秀ですからね。実際、知識にしても、自然認識の知識に対して、個人主体自覚の知識、個人と個人が文化を介して相互に理解し合う知識、それから歴史や社会の存在認識といった知識のさまざまなジャンルが出てきて、それらをどう系統づけるかを、京都の連中は苦しんで考えていた。西田さんの哲学もその渦巻きの中に根ざして出てきたのです。
(後略)(pp.9-10)
マルクス主義者でありつつ、模写説を徹底的に否定していたのは廣松渉先生だが、『哲学入門一歩前』から;

知覚的認識の場合、対象物が先方にあり、認識主体がこちら側にあって、事物から発出した刺激が主体に到着し、主体内部の神経生理的過程を通じて知覚心像が形成される、という具合に考えられるのが普通である。
知覚についてのこの通念的な観方を、著者は揶揄*2して「写真機モデルの知覚観」と呼ぶことにしている。
写真機に擬えて、知覚の成立にとっては、既存の対象物が先ず在って、それの写像が形成されるものとみなされる。
それでは、「写像の形成」がとりもなおさず「知覚的認識の成立」なのであろうか。(略)「見れども見えず、聞けども聞こえず」と謂われる場合がある。つまり、いわゆる放心状態の場合など、「外的刺激の入来−カメラ的結像」という神経生理的過程は完了していると思えるにもかかわらず、当人には、知覚像が意識にのぼってはない。このような場合がある以上、認識としての知覚が成立するためには、写像の形成だけではまだ不足であって、形成されている“像”を“見る”意識の作用が加わることが必要だと考えられる。
論者たちは、こうして、「対象−内なる写像−それを“見る”意識作用」という三つの要因が揃ってはじめて対象知覚的認識が成立する、と主張する。
(後略)(pp.59-60)

写真機の場合、実際に生起するのは、内部の乾板上における一定の光化学的変化、この物質的過程だけである。写真機という装置自身は、「“映像”を“見る”」わけではないし、況してや“乾板上の状景”が“外界の模写である”などと意識するわけではない。
「カメラが“外物”の“模像”を写す」という言い方は、この機構的過程全体を外部から肉眼で眺める意識主体の見地から初めて言えることであって、そこでは、(1)*3外的事物、(2)写像装置、(3)それら両者を眺めて対象物と乾板像を見較べる意識主体、これら三つのものが要件をなしている。しかるに、人々は「カメラが写像する」という日常的な語り口を借りることで、まるでカメラ自身が“外物”と“映像”と“写像関係”を自覚しているかのように喩え、知覚主体をそういう“自覚的カメラ”に擬してしまう。
この比喩的モデルが妥当しないことは明白であろう。もし強引に譬喩を成立たせようとするのであれば、単なるカメラ装置ではなく、それの内部に意識主体(つまり、“映像を見て取る”意識主体)を組み込んだ機構、謂うなれば「知覚する人間を内蔵せるカメラ」装置でなければならない。
だが、そのような「知覚する意識主体を内蔵しているカメラ」なるものを比喩的なモデルに仕立てたのでは、知覚を説明するためのモデルとしてはおよそ役に立たない。何故なら、“内蔵されている知覚主体”とやらの知覚機構がまさに説明さるべき課題なのだからである。――「知覚主体はどのようにして知覚を成立させるのか?」という説明課題に対して、「“装置”に内蔵されている知覚主体“が”知覚する“ことによってである」と答えたのでは、場面が一段だけ内部にスライドされただけで、何の説明にもなっていない。
カメラの比喩・モデルは、眼底部の網膜上に“像が結ぶ”光化学的な機制の模型ではたかだかありえても、肝心の知覚的認識という意識現象の説明にとって直接には役立たない。けだし、知覚主体本人は網膜像ないし脳内部の「内なる像」を「見る」わけではないからである。(pp.60-61)
哲学入門一歩前-モノからコトヘ (講談社現代新書)

哲学入門一歩前-モノからコトヘ (講談社現代新書)