「主体性」(なんだかわからず)

『朝日』の記事;


「大学生は主体性が足りない」 経団連、企業アンケート

2011年2月7日3時2分


 最近の大学生には主体性や創造力が足りない――産業界にこんな不満があることが、日本経団連のアンケートでわかった。最近の新卒採用で企業側は、募集人数に達しなくても求める人材がいなければ採用しない「厳選採用」を続ける。内定率の向上には、大学教育の内容を巡る企業と大学のミスマッチを解消する努力が求められている実情が改めて浮き彫りになった。

 大学生の採用で重視すること(複数回答)を企業に1〜5ポイントで評価してもらったところ、「主体性」が平均4.6ポイントで最多。「コミュニケーション能力」と「実行力」が4.5ポイントで続いた。

 一方、最近の大学生に不足している素質を尋ねる(同)と、一番多かったのが「主体性」で89.1%。能力・知識面で不足を尋ねた(同)ところ、既存の価値観にとらわれない発想ができる「創造力」が69.3%でトップだった。

 大学に取り組みを期待することの質問(同)では「教育方法の改善」が76.5%を占めた。具体的には、学生に体験活動をさせる授業などが挙がり、教員が一方的に講義する授業への不信を示した。

 企業側は大学教育にどう参加しているのか。27.3%が幹部や実務担当者を大学に派遣して講義をし、インターンシップを実施している企業も48.3%に達した。経団連は「今後も大学側との協力を進めたい」と話している。

 アンケートは昨年9〜11月、経団連会員企業1283社と非会員の地方中堅企業に尋ね、596社から回答を得た。(吉田博紀)
http://www.asahi.com/business/update/0207/TKY201102060293.html

これについて、濱口桂一郎*1曰く、

これは、大学文学部の哲学科の教授が教えるような意味での、自立した「個」としての絶対的な主体性ではありません。

集団や組織に懐疑の目を向ける唯一者としての主体性ではありません。むしろ、集団や組織と一体化する主体性です。

これは、組織の一員として自分が組織を背負ったつもりで、地位は平社員であっても社長になったつもりで、まさに自分自身を組織の主体と考えて行動できる性質のことです。島耕作的主体性とでも言いましょうか。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-acc6.html

もしかしたら、〈北の国〉の「主体思想*2における意味での「主体性」だったりして。それはともかく、これについては、かつて引用した*3岩井克人『会社はこれからどうなるのか』の一節を再び引いておくことにする;

経営者とは、会社の代表機関であり、(略)「機関」とはORGANの日本語訳で、そのORGANという言葉は、本来は身体の「器官」のことを意味しています。会社とは法律上のヒトですが、事実上は観念的な存在にすぎません。その観念的な存在が、実際に社会のなかでヒトとして機能するためには、頭や目や耳や口や胴体や手足といった器官の役割をはたす生身の人間が絶対に必要なのです。それが経営者です。具体的には、会社の意思を代表するヒトが代表取締役であり、その代表取締役の下で、実際の経営をおこなうさまざまな権限を委譲されているのが経営陣です。

日本の会社の場合、この会社の代表機関という意識が、少なくとも部分的には、法律上たんなる雇われ人にすぎない平社員にまで及んでいるのです。場合によってはブルー・カラーにまで及んでいるのです。経営陣が、会社の頭や目や口であったならば、サラリーマンはその胴体や手足であるというわけです。「サラリーマン経営者」という言葉は、経営者の多くは会社のサラリーマンから出世した人間であるという意味ですが、それは同時に、日本の会社においては、平社員から社長まで、だれまでがサラリーマンで、だれからが経営者であるかをはっきりと分ける境界線がないということも意味しているのです。(後略)(pp.151-152)

会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか

ただ、ここで濱口氏がいうような「主体性」というのは別に日本の企業社会に限ったことではない。(多分ルソー以来)ナショナリズムにおいて(よって)要求されてきた〈国民的〉主体性というのはこういうものだろう。濱口氏の文にある「集団や組織」を〈国家〉や〈民族〉に置き換えてみること。ここでは、牧原憲夫先生の2冊(『客分と国民のあいだ』*4と『日本近現代史2 民権と憲法』)をマークしておく。
客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉 (岩波新書)

民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉 (岩波新書)

ところで、濱口先生が学部時代の哲学教授ならともかく、いまどきの「大学文学部の哲学科の教授」が「自立した「個」としての絶対的な主体性」なんて説いているのかね。少なくともフーコーを知ってしまった人ならば、主体=臣民(subject/sujet)という認識は当たり前なのではないか。俺は学部時代社会心理学専攻だったから、subjectという英語を見ると、(心理学実験の)被験者を直ぐに連想してしまう。また、現象学的にいえば、私たちは意識というのがある限り主体性=主観性(subjectivity)として存在しているのであり、どんなにぼけっとしているように見えても生きている限り、subjectivityとしての主体性はあるわけだ。この意味では、主体性がないということは死んでいるというのと同義である。