「母性主義」について相対化

以前1980年代の反原発運動について、


他方、社会党について言えば、たしかに党全体の一般的なスタンスは「反原発」だったが、中には露骨な「推進派」もいたわけだし、また社会主義協会は資本主義の原発はNGだが社会主義原発はOKだとか主張していたわけだ。また、一般の「反原発運動」にしても、その大衆化に貢献したのがあの広瀬隆だったり、またかなり〈母性主義〉的な潮流もあったりして、20年以上経った地平から振り返れば手放しで肯定することは難しい。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110331/1301545326
と書いた。
さて、1980年代に「能登原発」反対運動に参加していた方が以下のように述べている;

 1980年に富山県に戻ってきてすぐに、当時進行中だった能登原発の構想を知り、能登原発の予定地の一坪株主運動に参加したり、その後北陸電力の株を購入しての意見株主運動にも関わったりしてきた。高岡は能登原発から30キロなので、「風下の会(原発はいらない風下住民の会)」というのにも参加していたが、今回の福島原発の震災により皮肉なことに、原発から30キロが避難区域であることを改めてまざまざと見せつけられた。地元の人はどれほど忸怩たる思いを抱えておられることだろうか。

 しかしながら、反原発運動もチェルノブイリ以後は、なかばあきらめのような感覚が強まり、88年の「まだ間に合うのなら」という伊方原発の出力テスト反対運動をピークに、次第に活動自体がだんだんしぼんでいったように思う。「まだ間に合うのならー私が書いた世界一長い手紙」という甘蔗 珠恵子さんの書かれた冊子が50万部も売れたと聞く。当時の運動は、チェルノブイリ事故にショックを受けた子を持つ女性たちが多く参加していたのは、当時の反原発運動が会社などの組織に属している人間には入りづらいほど「異端」的なニュアンスがつきまとったこと、当時の子育て世代は「寿退社」を選択するトラックにあった均等法以前の世代であったため組織から外れていたことがあったかと思う。


原発運動から距離を置いたのは、やることをやったけどなかなか事態は動かないという、あきらめにも似た思いと、自ら関わったCWAN*1も例外ではなかった、母性主義的なところに頼る運動に対する言葉にならない違和感も多少あったように思う(今から考えると、この運動には、海外頼みという面もあったが)。次第に「反原発」運動から遠ざかり、より足下の問題と思えた「性差別」問題に取り組むようになっていった。
http://d.hatena.ne.jp/discour/20110430/p1
能登原発反対運動の経緯についてはhttp://www1.cnh.ne.jp/s-kitano/history1/hanntaiha.htmlへのリンクが張られている。
これに対して、1990年代前半に川崎市武蔵工業大学研究用原子炉の廃炉運動に参加したYellowkittyさん*2

これを読んで思い出した。同じ頃、武蔵工大(現東京都市大学)研究用原子炉が水漏れ事故を起こした。宅地開発の進む多摩丘陵川崎市の横浜との境近くにあって、当時私は住民だった。事故は1989年12月で、報道されたのは1990年年明けだったと思う。新聞報道後ほとんど時をおかず廃炉を要求する運動が立ち上がった。上記にあるように「女性たちが多」かったのはその通りだが、「組織に属している人間」もいた。川崎市清掃労組の組合員で全員男性である。女性たちは、産直や地方選挙など住民運動に関わっている人たちが多かったが、主婦や若いお母さんたちばかりというわけではなかった。長く反原発運動を続けてきたグループも参加していたが、これも女性だけではなかった。詳しいいきさつは忘れてしまったが、わいてくるように人が集まってきて、知り合いになったという印象がある。一方、近所で熱心にリサイクルや食の安全に取り組む活動をやっている女性に参加をもとめたら、「原発は政治問題だから」と言って断られた。「リサイクルや食ならいいけど、原発は夫が許さない」とも。このあたりが、上記ブログに書かれている反原発運動には、「会社などの組織に属している人間には入りづらいほど「異端」的なニュアンスがつきまとっ」ていたということなのだろうか。当時の議論やビラを思い出しても(あまりよく思い出せないのだが)、上記ブログの言う「母性主義的なところに頼る」ところはなかったと思う。
http://d.hatena.ne.jp/yellowkitty/20110512/1305147893
と述べている。これは私が書いたことを相対化する証言。まあ私も一般的な印象を記しただけだったのだが。その時に念頭に置いていたのは、上でも言及されている甘蔗珠恵子『まだ間に合うのなら』という本だった*3。ともかく、1980年代の反原発運動=「母性主義」ということではないということは再度申し述べておきたい。
さて、反原発運動の「異端」性だけれど、通常の左翼運動よりも敷居が低かったのではないか。他方、左翼界では反原発は軟弱な〈おんなこどもの運動〉と見做されていたふしがあった。反原発関係にはヘルメット+マスクという典型的な新左翼ファッションでは登場しないという約束事もあったわけだが。また因みに、1980年代後半から90年代前半の左翼運動の主要な運動課題は昭和天皇の逝去、新天皇大嘗祭に絡んだ反天皇制だった筈。
原発運動に女性が多く関わっていたこと。「当時の子育て世代は「寿退社」を選択するトラックにあった均等法以前の世代であったため組織から外れていた」。そうかも知れない。また、これは1980年代後半における社会党の突然のブレイクとも関係があるのでは? 「原発は夫が許さない」ということについては、個々の家庭の事情とともに、個々の企業の事情を考えなければいけないのでは? 日本では〈企業城下町〉とか社宅という仕方で私生活が企業に包摂される傾向が強かったが*4、そのような企業であれば当然「原発は夫が許さない」という可能性も高くなるとはいえる。〈企業城下町〉の家族については、木下律子『妻たちの企業戦争』とか。また愛媛県では、配偶者が反原発運動に参加したということで教師が懲罰的に僻地に飛ばされるということがあって、上田紀行氏が、自分は元々ポストモダンを自称していたけれど愛媛県に住んで近代主義に転向したと言っていたことがあった。
妻たちの企業戦争 (現代教養文庫)

妻たちの企業戦争 (現代教養文庫)

*1:Concerned Women's Association of Noto

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110610/1307728018#c1307747176

*3:3月の時点では著者名を思い出せなかった。

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110118/1295373044