もうひとつの

小山エミ「「テロ戦争」化しつつある、反「セックス・トラフィッキング=性的人身売買」運動」http://synodos.livedoor.biz/archives/1623159.html


リュック・ベッソンの映画『96時間』を枕にしての米国の反「セックス・トラフィッキング」運動の話。「ここ数年のあいだ、売買春やセックス・トラフィッキングをめぐる米国での言説は集団ヒステリーに陥って」いること。「カウンター・テロリズム(テロ対策)を専門とする民間のセキュリティ・諜報会社(営利企業)と契約して、テロ組織に対抗するために編みだしたさまざまな手法を、売春組織や個々の買春客に適用し、追い詰め、殲滅しようという」戦略を執り始めたNGOの話。

「集団ヒステリー」ということで、これを読んで思い出したのは、1980年代以来の米国における〈反カルト運動〉である。ここでも、〈巨悪〉が構築されることによって市民社会の常識では許容されないだろうということが許容されてしまう。〈反カルト運動〉でも〈反カルト〉が〈カルト〉になってしまうというか、例えば信者を拉致(〈反カルト運動〉側からすれば保護)し、隔離して、deprogrammingという名の〈洗脳〉を施すとか。1980年代から90年代前半までの米国における〈反カルト運動〉については、中野毅先生が『宗教とナショナリズム』所収の論攷で論じていたか。
宗教とナショナリズム (SEKAISHISO SEMINAR)

宗教とナショナリズム (SEKAISHISO SEMINAR)

ところで、『96時間』について、「はっきりとした勧善懲悪的なプロットに加え、海外旅行中の誘拐、そして人身売買という危機、そして圧倒的な暴力によって悪を蹴散らして突き進む正義のヒーローという、いかにもアメリカ的なテーマの数々は、娯楽映画としてはよくできている」という。ただ、シルヴェスター・スタローンシュワちゃんが華々しく活躍していた頃の映画とこの映画が違うのは、リーアム・ニーソンの「暴力」を動機付けるのが〈お国のため〉とか〈自由世界のため〉といった大義名分ではなく、たんなる〈親馬鹿〉という私情だということだ。良くも悪くも、この違いは軽くはないと思う。