白でも黒でもなく赤

承前*1

http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/51255412.html


Skeltia_vergberさんの『ブラック・スワン』評。この特徴は映画の中の「赤」という色にとにかく着目していることだろう。
私もニナ(ナタリー・ポートマン)の引っ掻き傷は気になっていた。引っ掻き傷が自傷によるものだとしたら、自傷アイデンティティ(自己と世界との境界)が揺らいでいるときにその曖昧化した境界を、自己と世界の境界が全く無化してしまうリスク(究極的には死へと向かうリスク)を侵しつつ、引き直すことといえるだろうか。或いは、拡散してしまうそうな私を、〈痛む私〉、〈〈痛む私〉を眺める私〉というかたちで身体に再度定着させようとすること。日本語においては、掻く=書くということで、エクリチュールのはじまり、物語ることのはじまりということになるのだろうけど、この語呂合わせは英語では通用しない。
アイデンティティということで、『レスラー』をまた参照してみる。『レスラー』は役割(role)と自己(self)との関係についての映画でもある。特にプロレスラーのラム(ミッキー・ローク)とストリッパーでシングル・マザーのキャシディ(マリサ・トメイ)との関係。プロレスラーとストリッパーはどちらも


舞台或いはリングの上で或るキャラクターを演ずる

公衆に裸を晒す商売である


という共通点を持っている*2。キャシディはラムに役割との距離を取ることを教育する。勿論レスラーやストリッパーとしての役割を離れたからといってそこに〈すっぴんの私〉がいるわけではない。やはりそこでも父親とか母親とかスーパー店員といった役割を演じるわけである。キャシディの教育は失敗し、ラムは父親とか店員といった役割を上手く演じることができず、レスラーという唯一の役割に拘ることでしか生きていけないことを自覚する。Darren Aronofskyとしては、実存的な救済は、様々な役割を距離を取りつつ・そつなくこなして小市民的に幸福に生きるよりも、一つの役割に没入・同化することにあると考えているのだろう。ということで、『ブラック・スワン』ではとにかく白鳥/黒鳥への同化が目指される。また、『レスラー』のラムがジェンダーを転換して女になると、ニナになるといえるかも知れない。ニナの引っ掻き傷はラムの針金デス・マッチによる傷に対応する。また、ラスト・シーンの類似性。白鳥のジャンプとリングのコーナー・ポストからのジャンプ。

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上で「死」ということを仄めかしたのだが、swanというのは(白であれ黒であれ)死を喚起するということに留意すべきだろう。ZEPが設立したレーベルの名称はSwan Songで、これは辞世(遺言)や遺作を意味する。さらに、swanの語源は古英語のswinsianで、to make musicという意味である。つまり、swanという言葉自体にswan song、白鳥は死を前にして歌うという伝説が組み込まれているらしいのだ。
さて、Skeltia_vergberさんが「よく知らないけど、バレエ団ってエロい人たちの集まりなの?」と疑問を呈しているけど、全てはニナによる妄想的フィクションという最もラディカルな解釈を採れば、『ブラック・スワン』におけるバレエ世界はあくまでもニナが妄想したバレエ世界でしかなく、リアルのバレエ世界が忠実に再現されている必要はないことになる。映画を通じてバレエ世界を知りたいという人はロバート・アルトマンの『バレエ・カンパニー』*3を観て下さいということになる。
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それから、doll upですけど、おめかしするという意味でけっこう普通に使われている表現らしいですよ。
「白でも黒でもなく赤」には特に政治的な意味はありません。