「社交」についてメモ

承前*1

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

うっかり忘れていた。「共同体」と「無縁」の間? それは「社交」でしょと山崎正和氏ならば言うのではないか。
ということで、『社交する人間』からちょっとメモ。
山崎氏はこの本の冒頭で、エドワード・オルビーの「不条理劇」『動物園物語』を採り上げている。私はこの劇を観たことがないが、山崎氏によると、


明るく穏やかな午後の公園で、いかにも篤実で小心そうな中年のピーターは、思いもかけず見知らぬ無頼の青年ジェリーを殺してしまった。というより、奇怪なことだが逆にピーターはジェリーの策略にかかって、望まぬ殺人を犯させられることになった。意に反して飛び出しナイフを手に握らされ、その刃先にジェリーが体当たりをして死んだのである。ことの発端は、「動物園で何が起こったか知っていますか」というジェリーのひと言であった。(p.9)
という粗筋であるらしい。
山崎氏曰く、

ジェリーの言動こそ粗暴ではあるが、その人間関係にたいする要求は純粋をきわめている。友達がほしいという彼の願望は、第一にいささかも実利的な欲望を含んでいない。彼はい犬をあいてにすら、ただ愛しあい憎みあう絆を求めていたにすぎず、そのことの結果として得られる利益を求めてはいない。しかも、その絆の内容についても彼の望みは淡泊であって、けっして燃えるような情熱を期待しているわけではない。通常の恋愛に関心はないし、男色家としても激しく一体化できるあいてを探している様子はない。「動物園で何が起こったか知っていますか」という最初のひと言が示唆的であるが、彼はいわばそんあどうでもよい話題をめぐって、誰とでも半刻の会話を楽しみたいだけらしいのである。
たぶんそのことの反面として、ジェリーは永続的で宿命的な人間関係を懐かしんではいない。血縁や地縁や、強制的な契約にもとづく人間関係を求めていない。彼が両親の家族を捨てたか、それに捨てられたかは明らかでないが、いずれにせよそのことをとくに惜しんでいる形跡はまったくない。むしろ彼にとって幸福な家庭は軽蔑の対象であり、それは猫とインコのいるピーターの家庭への露骨な反感に現れている。まして故郷であれ近隣社会であれ、あるいは何らかの反社会的集団であれ、彼がおよそ重く湿潤な人間関係に憧れているようにはみえないのである。
彼が要求しているのは、いわば目的のない会話であり、欲望をともなわない人間どうしの関心であり、限られた場所と時間のなかでの軽やかな人間関係である。午後の公園のベンチに並んで、「動物園で何が起こったか」を語りあう関係である。そこに異常さがあるとすれば、彼がそんなささやかな接触に死ぬほど飢え、そのために現に命を懸けたということだけだろう。たしかにジェリーの行動は狂気じみているし、その異様さがこの芝居を難解にし、いわゆる「不条理劇」に数えさせてきたのも事実である。だが子細に見て、彼の内面の要求だけをとりあげて観察すれば、そこには異常と呼ぶべきものは何一つない。「友達がほしい」「誰かとむしょうに話がしたい」というのは、平凡なすべての人間の持つ欲望であり、常識が「社交」の欲望と名づけているものにすぎないからである。(pp.12-13)
また、

一見、奇怪な解釈だが、ジェリーはひょっとすると無意識のうちに社交の理念に殉じ、それが軽視されることに抗議して死んだのかもしれない。たかが社交のためになぜ死ねるのかという疑問にたいして、まさにその疑問の通俗性を憎んで死んだのかもしれない。一方に都市の無関心の砂漠が広がり、他方に無数の小市民の排他的な家族が貝のように閉じているのが、現代である。かたや砂粒に似た孤独な個人が散らばり、かたや鉄の組織が生きた人間の絆をおし潰すような時代が長く続いた。両者の中間に社交というもう一つの関わりかたがあり、それは命を賭するに値するものだということを人びとが忘れ去って久しい。互いに口もきかず顔も見ない茅屋の隣人を憎み、同時に中産階級の暖かい家庭を蔑む放浪者は、それと知らずにその中間にあるはずのものを求めていたのではないだろうか。(p.14)
「社交」の時間的・空間的限定性と脆さについて;

(前略)家族や村落共同体が無意識に感情を共有している状態は、社交とは呼ばない。また逆に功利的な組織のように、構成員が意識的に団結を確認しつづけているような関係も、社交とは見なされない。互いに正反対の理由から、両者のどちらも角に濃密な感情で結ばれ、人間関係が第三者を排して自動的に閉じられているからであった。これにたいして社交は、なかば意識的なかば無意識的に生みだされ、第三者を排除しない抑制された感情によって結ばれ、その結果、人間を付かず離れずの中間的な距離につなぐ関係と見なされることになった。だがこのような関係は見るからに脆く危うい関係であって、注意深い泥区のもとに、限られた時間と空間のなかにしか成立しないのは明らかだろう。
現象として見れば、社交の時間は人が適度の緊張を保ってくつろぐ時間であり、社交の場所はなかば公的な形式を備えた私的空間である。社交する人間は、労働の要求する固い時間割からは解放され、しかしなお一人きりの急速が与えるじだらくは許されない。一方で自由に選んだ親しい仲間に囲まれながら、他方ではその仲間が暗黙のうちに強制する規律に従わねばならない。いいかえれば、時間も空間も、友人仲間を囲いこむために閉じられていなければならず、同時に第三者を受け入れるために開かれていなければならない。(後略)(pp.28-29)
しかしながら、現代社会においては、「家族」も「無意識に感情を共有している状態」を期待できるどころか、「社交」関係と同様な繊細なケアなしには維持されえないことは前に書いたとおり。


ところで、「無縁社会」ということだが、これからは自分の死期が近いと悟ったら、blogとかTwitterに、〈人生お別れパーティ〉をするから集まれ! とか書き込む人も出てくるだろうね。それで、実際に人が集まったら「無縁死」でも「孤独死」でもないということになる。まあ、このようにして新しい〈縁〉も生まれてくるのだろう。
馮小剛の『非誠勿擾II』では、主人公泰奮(葛優)の友人であるTVキャスターの李香山(姚晨)が重要な役割を果たしている。映画は李香山の〈離婚式〉から始まり、癌を患った李香山の「人生告別会」が映画の山場となっている。