「歴史に対する現代の義務」(清水真木)

清水真木*1『忘れられた哲学者 土田杏村と文化への問い』から。


歴史叙述が過去に対して求めるものはただ一つ、それはアクチュアリティである。どのような時代も、自分の時代にふさわしいと思われるものを過去から呼び出し、そして、解釈し、記述し、保存する権利を持つ。それぞれの時代が語る歴史はとは、それぞれの時代にアクチュアリティを持つものの系統的な記述であり、このかぎりにおいて、すべての歴史は現代史となる他はない。歴史を現代史として構成することは、すべての時代に平等に与えられた権利なのである。
しかし、すべての時代が歴史にアクチュアリティを求める権利を持つとしても、それとともに、この権利は、過去に対し正当な評価を与える努力と一体のものとして理解されねばならない。私たちは誰でも、過去の時代の目立たぬもの、忘れられたものにたえず注意を向け、そのアクチュアリティを吟味することを怠ってはならないのである。これは、万人に課せられた義務である。私たちがこのような義務を放棄するとき、すべての歴史は、文字どおりの現代史となる。いや、それどころか、現代史はかぎりなく退縮して「現在史」となり、最終的には「歴史」であることをやめて芸能人とスポーツ選手に関する無責任で刹那的な噂話の集積へと収束してしまうであろう。
実際、今日の平均的な日本人の思考や行動は、歴史的な奥行を失い、それとともに、現代史もまた、内容の乏しいものになりつつあるように見える。歴史というものが人間を他の動物から区別する標識であるなら、歴史的なパースペクティヴを失うことは、一種の「動物化」に他ならない。そして、現代の日本において進行しつつあるのは、この意味における「動物化」である。(後略)(pp.12-13)
御尤もなこと。ただ、「芸能人とスポーツ選手に関する無責任で刹那的な噂話の集積」を回収して、「歴史」を再構成するというのも歴史家の仕事であろう。
ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」*2に曰く、

さまざまな事件を、大事件と小事件との区別なく、ものがた年代記作者が、期せずして考慮にいれている真理がある。かつて起こったことは何ひとつ、歴史から見て無意味なものと見なされてはならない、という真理だ。たしかに、人類は解放されてはじめて、その過去を完全なかたちで手に握ることができる。いいかえれば、人類は解放されてはじめて、その過去のあらゆる時点を引用できるようになる。人類が生きた瞬間のすべてが、その日には、引きだして用いうるものとなるのだ――その日こそ、まさに最終審判の日である。(野村修訳、p.329)
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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