「文化」と「コピー」(メモ)

アジア海賊版文化 (光文社新書)

アジア海賊版文化 (光文社新書)

承前*1

上海は初雪。昼過ぎにはまだオヤジの髪の毛のフケ程度のものだったが、その後雪は本格的になり、夕方には街路樹やビルの屋上もいっちょうまえに白く雪化粧している。

さて、土佐昌樹『アジア海賊版文化』からのメモ。
「文化」と「コピー」を巡って;


(前略)一般に、文化にとってコピーは命綱のようなものである。ある文化の「生存可能性」は、その文化を構成する多様な要素(料理や育児から形而上学に至る)がどのくらい次世代にコピーされるかという程度にかかっている。
つまり、文化の生命力はウイルスとどこかで似ており、その「伝染力」に負っている。コルセットや纏足のように、後継者を見いだすことに失敗すれば、そこで特定の文化制度の社会的生命は絶えることになる。しかしその一方で、環境の変化に適合的でない文化的要素が意固地に生き残ることで、その担い手(つまり、国民とか民族といったある文化集団のメンバー)の生存可能性が低下すれば、結局その文化は死に絶えることになるから、その場合も文化の生存可能性は弱まることになる。要するに、機械的なコピーでなく、状況適合的で創造的なコピーこそが文化の継承にとって命なのだといえよう。(pp.90-91)

宗教やイデオロギーなら自己複製を奨励し、自分のコピーが限りなく増殖していくことを喜ぶだろう。しかし、商業化された文化の場合、コピーは厳しく統制されなければならない。同じく限りない増殖を喜ぶものの、自己複製のたびに利益が回収される仕組みを逸脱してはならない。また、前産業社会において、コピーとはすなわち変異や逸脱を意味した。産業社会でも、コピーのたびに劣化するアナログ技術の時代まではその法則が守られていた。そして、コピーの速度も比較的ゆっくりしたものであった。仏教がインドから日本に伝わるまでに一〇〇〇年以上の歳月を要した。そして、同じ仏教といってもインドのそれが日本に伝わるうちにほとんど別物になっていた。「同じ」社会主義がロシアと北朝鮮キューバとでは似ても似つかぬものになるという事例を思い起こしてもよい。伝える当事者としては、あたうる限り正確なコピーをめざしたはずであるが、文化の伝播とコピーとは、つい最近までそういったことを意味していたのである。(pp.91-92)
また、王敏『日本と中国』に曰く、

(前略)文化は伝播によって変わっていく。文化の伝播には取捨選択が伴うものである。ましてや全面的な伝播は架空でしかない。ギリシャ・ローマ文化のヨーロッパ全域への普及がそうであったし、ヨーロッパから新大陸への伝播も同様である。日中の二〇〇〇年以上にわたる交流の蓄積は奇跡ともいえるが文化については「一部」の伝播にすぎない。(p.iii)
日本と中国―相互誤解の構造 (中公新書)

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See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070302/1172819496 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070314/1173847536 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080407/1207566378 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101208/1291739125