承前*1
「石原慎太郎と表現規制とオリンピック」http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20110116/1295112327
大矢悠三子「湘南海岸をかけめぐった東京五輪――「太陽の季節」から「若大将」へ」というテクストを紹介している。曰く、
「太陽族」、また「湘南」における風紀の悪化には前史があるように思う。それは1950年代に(沖縄を除く)日本本土の米軍基地の3分の1が神奈川県に集中していたことと関係がある。吉見俊哉『親米と反米』から少し抜書きしてみる;
石原慎太郎が小説『太陽の季節』を発表した直後は、「太陽族」は「有閑階級の不良少年」という意味であったらしい。しかし石原慎太郎原作の所謂「太陽族映画」が公開され始めた後には、映画の可視的イメージだけを真似た連中が氾濫し、「太陽族」は「愚連隊」とほぼ同義になったようである。そして舞台である湘南の治安が極度に悪化した事が、227ページのデータで示されている。当然ながら「太陽族映画」に対する世間の批判は凄まじかったようで、例えば『狂った果実』を観に行っただけで校長から退学勧告された女子高生も複数名いたらしい。神奈川県は「神奈川県青少年保護育成条例」に拠って、映画業者に太陽族映画の自粛勧告や観覧禁止措置を行ったらしい。その後も各地で上映を規制する条例が作られ、政府レベルでも法律的措置が議論されたとの事である。
小説こそ直接規制されなかったものの、太陽族映画の製作は中止に追い込まれたので、規制運動は石原慎太郎の収入にとって直接・間接に打撃となった事になる。こういう扱いを受けた時、「表現を規制する権力はいつの日にか潰してやる!」と思うクリエーターもいれば、「ふむ、表現もまた規制されるものなのか。これは勉強になった。」と思うクリエーターもいるだろう。昨今の言動を見るに、石原慎太郎はどちらかといえば後者に近かったものと思われる。
こうした神奈川の基地のなかでも、市街地に近接していたこともあり、米軍による接収直後から地域生活や大衆文化と密接に結びつくようになったのは、横浜から横須賀、三浦半島を挟んで湘南海岸沿いの基地施設である。なかでも逗子・葉山から茅ヶ崎までの湘南海岸一帯には多くの米軍施設が配置されていた。当時、葉山にはキャンプ・マックギル、茅ヶ崎にはキャンプ・チガサキの二つの主要な基地が置かれ、また藤沢から茅ヶ崎にかけての海岸線は「チガサキ・ビーチ」と呼ばれる広大な砲撃や爆撃の演習場となっていた。(p.139)
チガサキ・ビーチには演習の度に各地の基地から多数の米兵がやって来たため、米兵による暴行や不法行為が後を絶たず、米兵相手の売春も地域の社会問題となっていた。藤沢では敗戦後まもなく、RAAの慰安施設の一環として市当局が特飲業者に協力を申請し、新地に米兵用の慰安施設が開設された。やがて、この市当局が自ら推進する慰安施設は廃止になるが、従業員の多くは赤線地区の特飲店に職場を移すか街娼となるかしたため、実態が変化したわけではなかった。(後略)(p.140)
上の「太陽族」を巡る騒動は湘南の〈基地の街〉から〈おしゃれな観光地〉への転換期に対応しているのでは?
茅ヶ崎市では、「米軍を相手の売春婦の出現によって白昼住宅地附近の松林等において、目をおおわしめるような露骨な性行為等の実行等があって、子女を持つ母親に「どうしましょう」という驚がくと不安の悲鳴をあげさせ」、さらに「売春婦の中には、演習場附近に貸室を求めるものもあって、そのような群の移動も予想されうる」と、教育関係者やPTA、婦人会がこの問題を深刻に受けとめていた。五四年には、茅ヶ崎市議会で「売春に関する諸行為を取締ることにより善良の風俗を維持」しようとする風紀取締条例が可決されている。しかし、このような対策もむなしく「米兵の周囲には彼ら相手の女性の影がつきまとい、茅ヶ崎、藤沢の社会上・風紀上のゆゆしき問題として存在し続け」た(栗田、前掲「茅ヶ崎とアメリカ軍(3)」*2)。(p.141)
しかし、五〇年代後半になると、米軍基地や米兵たちの姿が徐々に日常の直接的な風景からは遠ざかり、「一部の地域」の問題とされていくにしたがい、この湘南においても「アメリカ」は、単一のイメージに純化されて人びとの意識を捉え始める。たとえば、一九五七年五月一一日の朝日新聞は、湘南海岸のビーチが、いまや「東洋のマイアミ」になろうと躍起になっていることを伝えている。それによれば、前述のチガサキ・ビーチの東隣に位置する片瀬海岸は、「海岸の風景を楽しむドライブウェイ、近代的なビーチハウスと広いモータープール」を備えた「バターくさいまでにモダンな海水浴場」に変身しつつある。神奈川県は、ここに「マリンランド」「ビーチハウス」「ヘルスセンター」などを建設し、やがては外資系ホテルも誘致して、湘南海岸をマイアミビーチに匹敵する一帯に変えていこうと考えているという。
五〇年代後半、この種の「アメリカン」な湘南のイメージは、『太陽の季節』(一九五六年)や『狂った果実』(同)などの映画の影響もあって一気に大衆化し、やがて今日的な湘南イメージを支えていく。もちろん、湘南海岸が「バターくさいまでにモダンな海水浴場」に変身していった背景には、基地からこれらの海岸に遊びに来ていた米兵たちの存在があった。たとえば、やがて湘南海岸はサーフィンを楽しむ若者たちのメッカとなるが、この地にサーフィンが根づくきっかけを作ったのは、近隣の基地から遊びに来ていた米兵サーファーたちである。湘南海岸の風景は、沖縄からグアム、ハワイ、マイアミまでの、基地とリゾートが背中合わせになって観光客を集める諸々のアメリカン・ビーチに連続していたのである。こうしたグローバルな米軍基地文化を背景に、石原裕次郎の熱狂的な人気や湘南ボーイのモデルとして演出された加山雄三、やがてはサザンオールスターズに至るまでの湘南サウンズが登場してくるのである。
実際、五〇年代の太陽族ブームや裕次郎人気では、裕次郎の肉体における「外人性」の強調がさまざまな仕方で繰り返されていた。(後略)
(前略)映画『太陽の季節』の前半では、早口で英語と日本語が混ざりあった会話をする英会話学校帰りの水着の女たちが登場する(Dennis Washburn. Carole Cavanaugh (eds.), Words and Image in Japanese Cinema, Cambridge University Press, 2001)。彼女たちは英語のニックネームを持ち、「ガイジン」のように振舞っていた。『狂った果実』では、北原三枝の演じたヒロインは、米軍将校の「オンリー」という設定であった。裕次郎は、いわば占領軍の手から女を強奪するのだ。これらの映画の設定からは、湘南がまさしく米軍の土地であること、そこを闊歩する女たちの背後にいる「アメリカ」が透かし見えてくる。
そして、石原裕次郎がそのようななかで特権的な地位を獲得していくのには、まさしく彼自身の表層的な外人性――日本人離れした脚の長さや顔やしぐさのバタ臭さが大きく作用していた。いわば裕次郎は、この湘南のコロニアルな自己、占領者としての「アメリカ」の分身としての自己を、暴力と性、肉体において鏡像のように体現していたのである。しかも興味深いことに、五〇年代の日活スターたちのなかで、二番煎じながら裕次郎的なバタ臭さに最も通じていた赤木圭一郎も、片瀬海岸の近くに住んでいた比較的裕福な家庭の子であった。裕次郎といい赤木圭一郎といい、この時代の湘南には、若者たちに「日本のなかのアメリカ」を体現させていく文化力学が構造化されていた。そして、六〇年代以降の湘南人気は、こうした五〇年代の基地と文化消費の関係を隠れた基盤として広がっていったのである。(pp.146-149)
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音楽に関してはアメリカに代表される外来文化に傾倒していた桑田だが、一方では、自分の生まれ育った茅ヶ崎や湘南に冠せられたきらびやかなイメージには徹底して背を向けている。「サーフィンの聖地」といったアメリカ的なステレオタイプはもちろん、それを借りた「太陽族」とも「若大将」とも何の共通項はない、と断言している。彼の表現によると、その故郷は「うらぶれた」「貧乏くさい」「排他的で」「惨めな」「地方」であり、「湘南」という呼称すら東京から見た呼び方であって、地元では「湘南」とは呼ばない、と頑なに繰り返すのだ。(pp.33-34)
という烏賀陽弘道『Jポップの心象風景』の一節*3を再度提示しておく。
大胆な表現をすれば、意識しているかどうかは別として、桑田は「植民地化された湘南の土着民」の視点にいるのではないか。そこから見れば、欧米文化をもたらした米軍・アメリカ人はもちろん、東京からやってきた富裕層である石原慎太郎も加山雄三も、地縁・血縁共同体の外から来た植民地支配者でしかない。(後略)(p.35)
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*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060410/1144636844 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060831/1157027021 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060918/1158548179 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061106/1162827266 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061111/1163243740 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061118/1163845906 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070225/1172421318 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070306/1173200489 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176606885 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176869274 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080114/1200293046 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080305/1204725934 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080614/1213420843 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080726/1217051072 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090208/1234026998 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246825752 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091002/1254502738 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091129/1259488849 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100305/1267767495 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100419/1271645099 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100420/1271729350 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100423/1272044223 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100426/1272309085 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100606/1275759613 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100619/1276975557 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100620/1277038368 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100903/1283488570 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100925/1285387758 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101019/1287455134 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101205/1291518836 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101208/1291778596 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101210/1292006456 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101215/1292353461
*2:栗田尚弥「茅ヶ崎とアメリカ軍(3)」『茅ヶ崎市史研究』24、2000
*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080928/1222627744 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090325/1237951018