「観客」と「サポーター」

フーリガンの社会学 (文庫クセジュ)

フーリガンの社会学 (文庫クセジュ)

ドミニック・ボダン『フーリガン社会学』(陣野俊史、相田淑子訳)*1から。
サッカーの(普通の)「観客」と「サポーター」の区別を巡って。


(前略)観客は「なんとなく試合を見物するだけ」の人間であり、サポーターとは「自分こそがそのチームの本物の支持者」と考える人間たちだ(ミニョン、一九九三年*2、七三頁)。付け加えておくべき区別があるとすればこんなところか。観客は、二チーム間の試合を愉しむことができて、ファインプレイを励ましたり賞賛したりする。ただそれでも自分のクラブが勝つのがみたいと思っている。一方、サポーターは、独特のやり方で応援する、排他的なチームの支持者だと自己認識している。不公平で無条件に支持し、野次や怒号を浴びせて昂じる狂信的排他主義に染まっている。しかしそれに過剰に意味を付け加えるべきではない。それはおそらく「大騒ぎしながらアイデンティティーを肯定すること」であり、「感情の高まりの必要条件」である。サポーター現象は、まず「役割への距離」(ゴッフマン、一九五六年)*3を否認することだ。「サッカーの試合に行くことは、一般的にいえば、映画館に行くような予定された消費行動とは違う。劇場や絵画展のように瞑想に耽ったりもしない。テレビを見ているときのようなぼんやりとした消費行動でもない。テニスやゴルフのようなフェアプレイを前提に観る、競技でもない。おそらくこの四つのやり方でサッカーの試合を観ることは可能だが、サポーター行動とは呼べない」(エランベール『成績信仰』*4、五三頁)。サポーターは感情をうちに秘めない、大騒ぎや幸福感、騒々しく下品に振る舞ううちに共有してしまう不平不満、そんななかに感情が表現されている。しかし、スタジアムは感情を爆発させても許される最後の社会空間だとは簡単には言えないだろう。現代の、安全と予防を重視した社会では、おそらくスタンドは、「ロクでもない連中と付き合い」、卑猥な身振りや言葉を撒き散らし、生きる喜びと存在することの不安、明日の不安を生々しく感じる最後の場所なのである。(後略)(pp.85-86)
著者の調査によると、「観客」に25歳以下の人間が占める割合は39.9%なのに対して、「サポーター」では64.1%である;

(前略)サポーターであるということは、人生のある時期と関連している。青年期を終えたばかりの、大人の生活への移行期間である。個人としての自立と、社会的なアイデン店ティティーを確立する時期に、若者たちは友達や恋人スタジアムにやってきて、両親の制限や制約を離れて初めて、人生の入口に立った自分を意識するのだ。よくあることだが、こうした感情は父親から受け継ぐものである。父親はまだほんの小さな息子をサッカー・スクールに登録したのち、スタジアムに連れてゆく。そこで情熱を磨きあげ、「男同士」の時間を共有するのである。青年期になれば、最も情熱的な若者は父親のもとを離れ、別の情熱を抱えて生きる。仲間とつるむのだ。(後略)(pp.87-88)
女性の参加は徐々に増えてきているとはいえ、サッカーが(プレイヤーにせよ「サポーター」にせよ)基本的にはホモソーシャル*5な男性文化であること。

(前略)イングランドやフランスをはじめとして、どの国の連盟の責任者たちもサッカー場に女性客を増やそうとしている。女性客が増えれば、サッカーの試合を家族の愉しみにすることができる。女性客の増加は、「見世物としてのスポーツの、よりブルジョワ的起源」(ブロンベルジェ『サッカーの試合』*6、一九九五年、二一八頁)に、再び繋がることを意味する。たがそれだけではない。他意のない明確な方策でもあるのだ。女性の増えた群衆は暴力的な側面を減らすことができる。妻や女友達の前では、男性たちは行儀よくなり、いっそうの自制を見せるようになるからだ。(p.89)

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180626/1530034510 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180701/1530473298

*2:Mignon, P. La societe du samedi: supporters ultras et hooligants. Etude cpmparee de la Grande-Bretagne et de la France

*3:巻末の文献目録にはない。1956年のゴフマンの著作というと、The Presentation of Self in Everyday Life。ただ、この本は1959年に改訂版が出ており、一般に参照されるのは1959年の改訂版の方であり、日本語版もこちらの方を底本にしている。 なお、ゴフマンにおける「役割への距離」に関して、一般に参照されるテクストは『出会い』(1961)所収の「役割距離」。

The Presentation of Self in Everyday Life

The Presentation of Self in Everyday Life

行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)

行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)

出会い―相互行為の社会学 (ゴッフマンの社会学 2)

出会い―相互行為の社会学 (ゴッフマンの社会学 2)

*4:Ehrenberg, A. La culte de la performance

*5:See eg.http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060305/1141591716 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061012/1160664502 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080430/1209520910 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090702/1246541132 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090716/1247682636 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091124/1259062337 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110711/1310400277 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150512/1431444219 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160310/1457624745 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160423/1461397446 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160730/1469838677 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20161115/1479241450 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171114/1510685554 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20171121/1511240378 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180217/1518868359 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180320/1521518896 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180412/1523502822 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180517/1526522149

*6:Bromberger, C. Le match de football: ethnologie d'une passion partisane a Marseille, Naples, et Turin