やはり外されて

「「朝鮮学校」が「高校授業料無償化法案の対象」から排除されないことになったということは取り敢えずはいいことだろうと思う」と書いたのだが*1、実はそれは誤報であったらしく、「朝鮮学校」は排除されることになるらしい。
城内実の国会での質問もそうなのだが、(私の感覚では)3月になってから「朝鮮学校」の教科書などを批判し、それを「無償化」への包括反対の根拠とするような論調が出て来たように思う。それだったら最初からそう言えよと思ってしまう。最初は教科書のことなどは言及されず、拉致問題に関する北朝鮮への圧力の一環だとされていた。何だか、拉致も教科書も「朝鮮学校」の排除という最初に設定された結論を正当化するための口実にすぎないということが見え見えじゃないか。
朝鮮学校」では金日成金正日を神格化して崇拝している云々。たしかに、それはキモい。だが、私は城内実の国会での質問に関して、


城内実のロジックが通用してしまうと、私立の学校、特に宗教系の学校にとっては大きな脅威となるだろう。「国民感情」と称される集合的恣意を名目として、国家が教育の内容に介入し、その存亡が左右されてしまうという可能性が開かれてしまうからだ。
と書いたのだった。教室に耶蘇の肖像を掲げて耶蘇を崇拝しているという理由で基督教系の学校を排除しろという議論が出て来たらどうするのか。また、(これは推測でしかないのだが)創価高校では真言宗や浄土宗を信じる者は地獄に堕ちると教えているかもしれない。その理由で創価高校を「高校授業料無償化法案の対象」から排除することはできるのだろうか。私の意見では、ミッション・スクールにせよ創価高校にせよ、英語や数学といった主要科目において高校生に教えるべきミニマムなレヴェルをクリアしているとすれば、〈信仰〉に関わる部分に関しては、周辺的な事柄として無視すべきであると思う。「朝鮮学校」に関しても、この原則は貫かれるべきであろう。これは位相としては、仏蘭西における「ブルカ」問題に接近してくるのではないか*2。いろんな意味で。
さて、「朝鮮学校」の教科書を初めとした教育内容への批判は、それ自体としてはかなりの部分で妥当なのだろうと思う。ただ、上述したような下心を勘ぐられてしまうということはどうしてもある。「朝鮮学校」を批判する人たちがそれを排除に結びつけず、政府も粛々と無差別的な「無償化」政策を遂行していれば、様相は変わってくると思われる。「朝鮮学校」への批判が〈差別〉に結びつけられることも減り、その批判の妥当性を高めることはあっても減じさせることはないと思うのだ。だから、「朝鮮学校」の教育内容がアレだと思う人こそ、「無償化」の適用を支持すべきだとは思う。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100312/1268361072を読むと、「高校無償化」そのものに反対する人が少なからずいるということに気づく。これは一理あると思う。ただ、そうならば、「高校無償化」どころか義務教育制度それ自体に反対すべきだということになる。また、これは(多分)国家(state)のミニマムな存在理由を巡る議論に接続されるべきか。