ニコラス・クザーヌスとパースペクティヴ性(メモ)

承前*1

池田信夫のテクスト*2にいちゃんもんをつけながら、新田義弘先生が「パースペクティヴ性」の問題をニコラス・クザーヌスまで遡りながら、論じていらしたよなということを思い出した。但し、その書誌学的情報までは思い出せない。新田先生の『哲学の歴史』を捲っていたら、ニコラス・クザーヌスと「パースペクティヴ性」についての言及が見つかったので、以下にメモ。
話の前提として、ニコラス・クザーヌスにおいて「神」は「真の無限」であり、「不可視」であり、人間の知性によって理解することはできない。「世界」は「神の像(写し)」、「可視的になった神(Deus sensibilis)」であり、「縮減された無限性」を持ち、知性による理解の対象となる。また、「有限的にして無限的」(pp.59-61)。


しかし人間の認識が有限的無限性としての世界の認識のなかにとどまるかぎりは、この認識は漸進的であり、未完結的なプロセスを描いていく。人間の眼には世界の全体はけっして一挙に与えられないのである。このような終項の無い未完結的無限性は不定無限とよばれる。人間における知識の形成は、一挙にすべてをとらえる神の眼差しとはちがって、もともと人間の視が特定の視点をもっているということに制約されている。およそ人間には物やものごとはつねにある一定の角度から、ある特定のすがたでしか現われてこない。したがって人間が物についていだく知識も、原理的には一面的であり、断片的である。
ということはなにもバラバラに孤立して物を規定するということではなく、むしろ物はたえず一面的にのみ規定されることによって、かえって全体として物についての規定の連続的な連関が形成されていくのである。その連関をとおして全体を眺めているわけであり、全体をまるごとそっくり、一挙に知るという仕方で眺めているわけではない。全体はつねに一定のアスペクトから眺められた全体なのであり、視点によってその現われ方を変える。このような現われ方、あるいは与えられ方は、パースペクティヴ性とよばれる。われわれは、ルネッサンス絵画において具体的に使用された透視術という技法を識っている。われわれは、ルネッサンス時代の空間の意識をこのパースペクティヴ性に見いだしているが、じつはこの空間の与えられ方の規定は、神学的な背景のもとで登場する数学的な認識の意義と深く関わっている一種の文化的考案物、つまり時代の産物なのである。
ところで視点というものは、他の視点、それも複数の視点を当然予想するものでなければならない。とすれば、同一の事物はそれを見ているそれぞれの視点に、別々の現われ方をする。世界も同様に、それぞれの視点に対して別々の現われ方をするのである。クザーヌスは、神の同一性に対して、世界の同一性は、多性、すなわち差異性のなかにある同一性であるといっている。世界それ自体というものは存在しないのである。世界は一つであるにせよ、個々のもの、個物において相違する仕方で与えられているのである。
このことは今日の他者問題に、さらには同一性と差異性の問題系に直接に関わってくることであり、こうしたきわめて現代的、あまりに現代的な問題がクザーヌスの思想のなかに登場している。(pp.62-63)
哲学の歴史 (講談社現代新書)

哲学の歴史 (講談社現代新書)