安藤昌益と「自然」(メモ)

承前*1

自然 (一語の辞典)

自然 (一語の辞典)

伊東俊太郎『一語の辞典 自然』で安藤昌益の「自然論」に言及されている部分からメモ。
先ず、『自然真営道』「大序」が引用される(p.85)。曰く、


(前略)賓辞ではなく主辞として現われてきている。この「自然」は「互性妙道」とされるが、互性妙道は宇宙の真の活動的実在である活真(これは伝統的五行のなかの土に当てられている)が自り働いて進退し、天地、日月、男女、木・水、火・金などの万物を生み出していく。これらの対立する二項は価値的上下関係をもたず、まったく平等で、相互に他を必要なものとして含み、かつ互いに感応して微妙な調和関係をたもっている。天が上位で地が下位にあるのではなく、ただ動と静という機能の違いであり、これが互いに他と補い合って世界をつくっている(このために昌益は価値的上下を想起させる「天地」の字を避けて「転定」と表記する)。男女についても同様で、この両者はまったく平等で、相互に相手の存在を含みこんだ適合的関係の中で人間全体を形づくっている。宇宙はこうした全体的連関性のなかで生きて働く究極的な実在であり、始まりも終わりもなく、始まりも終わりもなく、教えることも習うこともない、増えることも減ることもない、活真(土活真)の「自(ひと)り然(す)る」活動の所産であり、それが「自然」である。「自然」を「自(ひと)り然(す)る」と読むのは昌益の独創だが、これには「自(おのずか)ら然(しか)る」よりもいっそう積極的・主体的な意味がこめられている。昌益にとって「自然」は決して成り行きまかせのものではなく、生命的実在(活真)の自主・自発の能動的活動そのものであった。(pp.85-86)
伊東氏の評価;

まず第一に、それまで「自然」は道徳的・人倫的な立場で言及されることが多かったが、しかし昌益においては、彼が医者であったこともあり、「自然」という言葉が人生論的なことよりも対象的世界――今日のいわゆる「自然」――について用いられていることである。もっともそうは言っても、昌益の「自然」は「法世」に対する「自然世」や「自然直耕」の概念と結びつくように、強い倫理的内容を併せもっていた。第二に、「自然」はそれまで副詞的・形容詞的に用いられていたが、昌益において「自然活真」のように、活真につける形容詞から「自然真」にすすみ、さらに「真」が落ちた「自然」となって、「自然、大いに進退・退進して転定となる」のように独立した名詞となって現われてくることもある。この用法は『統道真伝』において、ますます著しくなる。(略)第三に、このような昌益の自然論は、「互性」その他の注目すべき独自な概念装置をもって、宇宙全体を、自立自行する生命的実在が積極的な自己形成をとげるホリスティックなシステムとして捉えた、すぐれた思想的営為として高く評価される。それは日本人がその自然概念の行きつく果てにつくり出した最後の圧巻ともいうべき、最も独創的で包括的な自然哲学であり、今日の環境問題や自然観の見直しにも寄与しうる内容をもっている。(pp.86-87)
安藤昌益については、ノーマンの『忘れられた思想家』を読んで、こいつぁ〈江戸のポルポト〉じゃねぇかと思っていた。しかし、伊東氏の叙述を読んで、再度昌益に対する関心が芽生えた。勿論、〈ポルポト〉的な側面への警戒は必要だろうけど。また、岩波文庫で『統道真伝』が復刊されたときに、購入はしたのだけれど、10数年間読んでおらず。
忘れられた思想家〈上巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)

忘れられた思想家〈上巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)

忘れられた思想家〈下巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)

忘れられた思想家〈下巻〉―安藤昌益のこと (岩波新書)

統道真伝 上 (岩波文庫 青 7-1)

統道真伝 上 (岩波文庫 青 7-1)

統道真伝 下 (岩波文庫 青 7-2)

統道真伝 下 (岩波文庫 青 7-2)