- 作者: ジャングロンダン,杉村靖彦
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2014/07/19
- メディア: 新書
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ジャン・グロンダン『ポール・リクール』(杉村靖彦訳、白水社、2014)*1から。
(前略)弁証法の才能、あるいは「矛盾への偏愛」によって、リクールは対立のうちに事象そのものをよりよく理解するための助けとなる相補的な観点を見てとる。ここに彼の理解の哲学がもたらす最初の教訓がある。つまり、一つの問題について多様な観点を考慮に入れるほど、それらが対立しあう観点であるように見えるとしても、そう見える時こそより良い理解がえられる、ということである。それゆえ、リクールの思索は一切の独断や分断からみごとに免れている。この思索は、革新的で偶像破壊的な考えを守ることよりも、人間に関わる現象に可能なあらゆる光を当てて、その複雑さを正当に評価することに意を注ぐのである。(pp.10-11)
(前略)思索の世界では観点や学派を対立させるのはごく簡単なことであり、対立する立場を突き合せなければ何も得られないことを、リクールはよく承知している。彼は反定立よりも総合の方を好むが、最終的な総合という(ヘーゲル的な)考えには頑として反対する。その主たる理由は、最終的な総合があるとすれば、人間の反省や行為がもつ無限の可能性に終止符が打たれるからである。無限の可能性があるからこそ、歴史は開かれたままであり続ける。この歴史というテーマは、リクールがたびたび関心を向けてきたものである。だが、最終的な総合に反対するもう一つの理由がある。それは、人間の存在しようとする努力が、悲劇とはいわないまでも、本質的な未完成を特徴としていることへの鋭い感覚である。(後略)(p.11)
(前略)リクールの著作活動は、人間の存在しようとする努力がすべてそうであるように、まさしく未完成において完成したのであり、またそうあるべきことをみずから知っていたのである。人間とは未完成なる努力であり、必然的にそうありつづける者である。この努力の意味は何であるのか。この努力の可能性や潜勢力はどのようなものか。リクールが問うのはそういったささやかなことである。ここにリクールが考察しつづけてきたカントの問いを読みとることもできるかもしれない。すなわち、私の乗り越えがたい有限性にもかかわらず、人間の条件に付きまとう悪と悲劇にもかかわらず、私は何を希望してもよいのか、という問いである。(pp.12-13)