アイルランド再びなど

承前*1


PledgeCrew*2 2009/12/08 21:37
ふと思い出しましたが、会津士族の東海散士こと柴四郎が書いた「佳人之奇遇」に、紅蓮という愛蘭土独立の女性闘士が出てきますね。もう一人、西班牙出身の幽蘭という美女も登場しますが、なぜかどちらも名前が中国風。

漢字と片仮名の漢文調なので、とても全部は読めませんが、そこではイギリスの支配下にある愛蘭土と、幕末・明治の日本とが同様の境遇にあるものとしてたしかに重ね合わされています。だとすると、アイルランドと日本を重ねる発想は結構古いし、事実ナショナリズムの鼓吹に役立ったということになりますね。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091208/1260270282#c1260275865

これを読んで思い出したのはベネディクト・アンダーソンのこと。曰く、

わたしは幸運なことに、複合的な家族背景を有しています。父はアイルランド人で、母はイギリス人です。アイルランドは、一九二一年までイギリスの植民地であり、独立当時わたしの父は、二八歳でした。
わたしの父自身も、ある意味で異種混交とも言えます。祖母方の家系は、真正なアイルランドの古いカトリックであり、一七九九年から一八九〇年までの期間、合法非合法を問わずナショナリスト運動の活発な参加者でした。それに対し、祖父方の家系は、一七世紀後半に土地を獲得し、徐々に「忠良なイギリス系アイルランド人」となっていった「入植者」で、インドや東南アジアにおける大英帝国のために多くの兵士を供給している家系です。
この二つの家系が混じり合ったのは、およそ一八五〇年頃です。ナショナリストの家系が帝国主義の家系と混じり合ったのです。わたしの父は、そんなわけで、一八九三年にペナンで、大英帝国の少佐の家に生まれました。そこは退役軍人たちの集う場所だったのです。アイルランドの家系はまた、プロテスタントカトリックの混合でした。そして子供の頃わたしは、両方の教会に通うことになったのです。
わたしの父は生涯の多くを中国で暮らしました。一九一四年から一九四一年のあいだ、大英帝国の税関官吏として活躍し、中国語の会話と読み書きに長けていました。中国と中国の人々を愛していましたが、自分が勤めたあらゆる政府を嫌悪していました。こうしてわたしは、中国の昆明で、一九三六年に生まれることになったのです。
太平洋戦争が開始される前夜、父は、重い病気を患い、アイルランドに家族を連れて戻りたいと望むようになりました。しかし大西洋の潜水艦戦が激化していたために、わたしたちの家族は、アメリカで三年間を過ごすはめになりました。妹はそこで生まれました。わたしは、最初の教育を、カリフォルニアのひどい学校で受けたのです。
一九四五年になって、わたしたちは、ようやくふるさとに帰れました。父が亡くなったのは、その翌年、わたしが十歳の時です。母は、父の死後もアイルランドにとどまることを決めましたが、わたしをラテン語の家庭教師のものへ通わせました。やがてわたしは、イギリスのエリート小学校へやられることになりました。気持ちとしては、とてもアイリッシュなままで。この学校でわたしは、イギリスのもっとも有名な高校へ行くための奨学金を獲得したのです。(「『想像の共同体』を振り返る」in 梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』、pp. 20-22)
梅森氏もいうように、アンダーソンが「アイルランド国籍」を持っていることを知っている人はそれほど多くないのでは(「アンダーソン事始」、p.113)?
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

アンダーソンがこの本でアイルランド独立運動に言及しているのは何故か、今引用した箇所だけ。別の講演(「アジアの初期ナショナリズムのグローバルな基盤」)では、明治の政治小説家、末広鉄腸がフィリピンの独立運動家、ホセ・リサールをモデルとした小説(『大海原』)を書いていることが語られている(pp.73-75)。
アイルランド独立運動が世界的にどれだけ影響を持ったのかはわかりませんが、明治時代、つまり19世紀後半は独立運動1921年の(南半分の)独立に向けて高揚した時期だと考えられるので、それが東洋の「ナショナリズムの鼓吹に役立った」としても不思議ではない。ところで、もしかして、「東海散士」は「愛蘭土」を「会津*3に重ねているのでは? 話は違うけれど、佐伯彰一(『外から見た近代日本』)が、同じ内戦に負けた者として、会津を初めとする東北人は米国の南部に共感するところが大だったのではないかと言っていたような気がする。明治の日本で、反列強的なナショナリズムを掻き立てたのは、内村鑑三もそうだったわけですが、やはり南アフリカボーア戦争でしょう。19世紀には反帝国主義の闘士と称えられたボーア人が20世紀には最悪のレイシズムの悪名を轟かせたアパルトヘイト体制を作ってしまうのは皮肉と言えば皮肉。また、逆にボーア戦争は、英国本国における(帝国主義的)ナショナリズムを活性化させる契機ともなった(井野瀬久美恵『子どもたちの大英帝国』)。