「規律訓練」/「生−権力」(メモ)

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

承前*1

大貫恵佳「身体をめぐる2つの権力――ミシェル・フーコーと「動物化」の議論――」(『コロキウム』2、pp.103-119、2006)の続き。第3節「規律訓練と法」(pp.108-112)。


『監獄の誕生』の第一の意義はこの点にある。すなわち、権力のある側面を規律訓練のテクノロジーのなかに発見し、それを法に従属させることを拒んだことだ。フーコーは考古学を通して、それら両者がそれぞれ別個のメカニズムで作動していることを明らかにしたかったのだ。(p.108)
「一種の反=法律」としての「規律訓練」(p.109)。さらに、

権力を法から切り離して思考すること。これは後の『性の歴史I――知への意志』(Foucault [1976=1986])において明確になる。そこで彼は、法が抑圧を行うという考えと法が欲望を成立させるという考え方とをともに「法律的−言説的(juridico-discursive)」権力の表象と呼び、批判している(Foucault [1976:109=1986:108])。そしてそこでは精神分析もまた「欲望の周囲にかつての秩序」(Foucault [1976:198=1986:189])たる法を呼び出したものとして退けられることとなる。(ibid.)
「告白」は? 「規律訓練のひとつの手法である告白において問題とされたのは、法や欲望ではなく快楽であった」(ibid.)。「権力を作動させる力は、法や他者の内面化ではなく、ただ権力との関係で告白が快楽に変えられること、権力が私たちのいまだ知らない快楽を開発し、そして、権力もその快楽に溺れるというプロセスそのものであった」(pp.109-110)。
知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)


しばしば、ルイ・アルチュセールとともに語られることによって忘れられてしまうのだが、フーコーの規律訓練は、このように法とも欲望とも関連を持っていない。したがって、そもそも東による「規律訓練型権力はひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける権力」(東・大澤 [2003:32]*2)であるという説明自体がフーコー解釈としては間違っていることになる。東は、規律訓練を法に従属させた上で、それとは区別される新しい権力を「環境管理」型権力と呼んだ。だが、フーコーの規律訓練の概念を正しく理解すれば、環境管理型権力はたんに規律訓練の延長線上に位置し、機能的には規律訓練と同一のものであると考えることができる。東は、フーコー的権力と環境管理型権力に「断絶」を見た。本稿はそれに対して「連続性」を主張したい。(略)東の言う「動物化」はたんなる回帰ではなく、ある「訓練」の結果であるということ。「欲求」とは異なり「快楽」は(その内容においては)歴史的変容をこうむる。権力はつねに快楽を強化するため、私たちの身体にとって刺激となるものを開発し続けるからだ。だから、快楽は満足を得て回路を閉じるということはない。東自身のサブカルチャー*3についての分析はこの事態を記述していた。(後略)(p.110)
「『監獄の誕生』は規律訓練のテクノロジーとは逆側の極に法を依然として存在させ、この異質なもの同士が通い合う時代の奇妙さを描いたものでもある」(ibid.)――

法は二元論的な分割によって排除された者の空間を作る。一方、規律訓練は排除された者を細分化し、特定し、社会の内部に包摂する。私たちの住む社会とは、このように権力の2つの形態を組み合わせたところに成り立っているのだ。排除されつつ包摂される「個人」。これが『監獄の誕生』のもうひとつの重要な主張であった。(p.111)。

それと同時に『監獄の誕生』は司法の弱体化についても述べている。規律訓練は法とは独立し、法に対して「過度」であるがゆえに、強大化し、社会体の隅々まで蔓延するにいたった。規律訓練は「見せかけの放免」を失うのだ。それに伴い、厳密な意味における「法」の水準が社会から消えさる。(後略)(ibid.)
「規律訓練」は戦争機械? 裁判官/医師/教師の区別の曖昧化? また、ここでは「法」と(社会システムとしての)「司法」は等価なものとされているが、それでいいのか。
「法の弱体化」を引き起こしたものとしての「生−権力」という「新たな権力様式」。「東自身、「環境管理型」の権力はフーコーの語で言うならば「生−権力」に相当する(かもしれない)と述べている」(ibid.)。

だがそうではないだろう。というのも、フーコーは生−権力論のなかで規律訓練を捨ててはいないからである。フーコーにとっては、規律訓練は生−権力にその場を譲ったのではなく、生−権力を支える重要な役割を担うものであったのだ。フーコーによれば、生−権力を支える極は2つある(Foucault [1976:182-3=1986:176])。そのうちのひとつが『監獄の誕生』において綿密に分析され、『知への意志』の前半部でも執拗に描かれた規律訓練のテクノロジーなのだ。そしてここで、もうひとつの重要なテクノロジーが提起されることになる。それは「生−政治」のテクノロジーである(Foucault [1976:183=1986:176])。ちまり、生−権力は、規律訓練が法を失い一人歩きをし始めて変質した形態ではなく、むしろ規律訓練はそのままで。法のかわりに生−政治をたずさえることによって誕生したのである。(pp.111-112)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090607/1244348445

*2:東浩紀大澤真幸自由を考える

*3:動物化するポストモダン

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 東浩紀も〈萌え〉について、条件反射として条件付けによって制御されうることを論じていなかったっけ?