仏蘭西哲学2つの流れ(メモ)

承前*1


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檜垣立哉『生と権力の哲学』からのメモ。
著者によれば、フーコーの思考は「フランスにおけるエピステモロジー(科学認識論)の系譜」に連なる。曰く、「医学や精神医学の視線の成立を巡る初期のフーコーの研究は、明らかに、科学的な認識の条件を、社会歴史的な拡がりのなかへと適応させながら考察するものである」(pp.48-49)。
仏蘭西思想の2つの流れ;


その一つは、科学的な対象として考えられる物質や生命に関して、あるいは数学や論理について、それらの認識の仕組みを検討するものである。それが、バシュラールやカンギレムらが形成した、エピステモロジーの流れである。
もう一つは、意識の存在そのものを探ることによって、「世界」や「私」の成り立ちを考えるという発想である。この方向はフランスでは、とりわけ戦後において、ドイツの現象学*2や、その実存主義的側面が輸入されることにより、サルトルメルロ=ポンティらによって追求された(pp.49-50)*3
著者によれば、この2つの流れの交点に位置しているのがベルクソン

二十世紀初頭に流行したベルクソンの〈生の哲学〉は、感覚的な質や生命という主題を際だたせながら、哲学を「生」の現実へと引き戻す方向設定を果たしている。こうしたベルクソンの思考は、一面では、持続としての時間や進化論の哲学を論じる点で、科学論的な側面をもちあわせている*4。そして他方では、知覚や身体の運動性をテーマとするように、フランス現象学に強く影響を与えている。科学の認識の哲学と、意識の存在の哲学は、二十世紀初頭のベルクソンにおいて基本的には交錯していた。しかしこの二つの流れは、以降かなり顕著にすれ違っていく。そしてそのすれ違いは、構造主義以降のポストモダンの思想の形成にまで、深い影を落とすのである(p.50)。
デリダレヴィナス

デリダレヴィナスは、フッサール(1859-1938)の現象学を精緻に解読することにより、フッサール的な現象学のテーゼを転覆させてしまう。その意味で彼らは、サルトルメルロ=ポンティらに見られるような、いささか素朴な現象学の受容からは抜けだしていく。
デリダレヴィナスにとっては、直接的な世界経験とされるもの、つまりデリダ的な用語でいえば、西洋形而上学の根幹を担っている「現前」という、「世界」がありありと「私」に立ち現れる場面は、かならず「非現前」によって、あらかじめ侵食されているというのである。そこでは、経験に介在してしまう非経験としての、「言語」や「他者」という契機が、まずもって重視される。「私」の直接的な経験は、すでに「言語」や「他者」といった、直接性に還元できない媒介に晒されている。だから、直接的な経験に依拠する西洋形而上学的な真理とは、すべて「脱構築」されることになる。
しかし、同時に考えるべきことは、このラインの思考を突き詰めるときに、「現前」という根拠の「不在」のスローガンが、従来の形而上学的なあり方とは別の仕方で、「他性」に依拠した「主体」を強く描き出すことにある(pp.51-52)。

現象学から思考を開始し、それが抱える「現前」という発想の限界を乗り越えていくこの「両者」が、最終的に、「正義」や「責任」というテーマに行き着き、政治的・倫理的な「主体」の姿を強く打ちだすことには着目しなければならない。彼らは、現象学という近代的な思考の極限を問うことで、そうした思考が依拠する基盤の「喪失」を暴きながらも、そこで「他」なるものへの倫理と責任にもとづいた、西洋近代の原理とは異なる「主体」を提示し、ポストモダンの一つの方向性を示すのである(pp.52-53)。
ここで、著者はデリダレヴィナスに共通する要素としての「ユダヤ教」を提示する(p.53)*5

しかし、こうして提示される倫理や政治の議論は、フーコーが考える〈生政治学〉的な分析とは、きわめて対照的なものであることにも注意しなくてはならない。こうした現象学経由のポストモダンが打ちだす「主体」とは、強く「言語」的な水準において提示されるもの、つまりはビオスに回収される「生」を対象とするものと考えられるからである。
フーコーの政治的・倫理的スタンスを把握するためには、「他性」に依拠しつつ「正義」や「責任」の「主体」にいたる、こうした「脱構築」的な議論が示す政治的発想との、明確な差異を押さえる必要がある。フーコーは、「正義」や「責任」というディスクールを、それもまたある思考の枠組みのなかでしか機能しないものと捉えるのである。〈生政治学〉はそれに対しても外部をなすような、ゾーエとしての生を対象とするのである。ゾーエとしての生とは、あえていえば、それ自身としては非−正義でも無−責任でもあるような、生の基層で働く権力性であるのだから(pp.53-54)。
ここで、「ゾーエとしての生を対象とする」「生政治学」が〈現前の形而上学〉に陥ることはないのかどうかという疑問を呈しておく。
さらに、デリダレヴィナスフーコーの差異については、

現象学を出自とし、「意識」の徹底的な検討から、その透明な「現前」の可能性をとりだしていく、デリダレヴィナス的な発想は、ネガティヴであることの極限を徹底させることにより、自らを「他」なるものの肯定の議論へと転化させていく。根拠は何もないということを反転させ、その何もないこと(届き得ないこと)から「他性」という拠点を見いだして、相対主義を逃れようとするのである。
それに対し、認識そのものの成立条件を探るフーコーのエピステモロジーは、確かに最終的な根拠の喪失という状況は認めながらも、そうした「不在」に依拠しつつ、議論を展開することはない。しばしばフーコーの思考やデリダの思考が〈外〉の思考というスローガンのもとにひとくくりにされることもあるが、そこにはこうした根本的な差異が存在することをはっきりと見分けなければならない。フーコーの思考には、逆説的であるが、「不在」は存在しないのである。フーコーにおいて、そもそも無や無秩序は原理として機能しない(pp.64-65)。
黙読しているだけだと気づかないが、抜き書きをしていると、檜垣さんの思考のリズムは独特で、それに合わせようとするのは厄介だということに気づく。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070214/1171428168

*2:フッサール現象学自体がそもそも〈科学の危機〉に応答した科学論(学問論)であったことを勘案しなければならないだろう。

*3:所謂「構造主義」は「エピステモロジーの系譜」と関係している(p.49)。

*4:フーコーは時間を特権化した思想として、ベルクソンに対して批判的なコメントを残していなかったか。

*5:ここで、レヴィナスはともかくとしてデリダに関しては、Joyce/Caputo的なGreekJewという言葉を思い起こす必要があるだろう。