一般と特殊の問題(メモ)

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080813/1218590505 


所謂「トリアージ」論争*2の文脈における言説であるが、「ホロコースト」問題について曰く、


[絶対性][神聖性][唯一性]とかいった「タグ」貼り付けによって、欧米ではホロコーストは産業化したわけにゃんね。一方、日本ではこのタグ貼りによって、「俺達とは関係ねーなあ」という安易で便利な固定化がされてしまったのかにゃ?

聖化と無関心は、いわゆる切断化(便利なコトバにゃんねえ)の結果の別の現れ方でしょうにゃ。


id:Apemanにしろid:hokusyuにしろ、ホロコーストに[絶対性][神聖性][唯一性]とかいった「タグ」貼り付けをしてにゃーんだな。道具的理性とか合理性とか啓蒙とかいったものの、ある意味での必然としてホロコーストを捉えているわけですにゃ。そして、この捉え方がホロコーストの言説において要請されるスタンスだということなのではにゃーかと。

歴史におけるあらゆる出来事には、特殊な事情と普遍的な事情がありますにゃ。単なる特別視では、ホロコーストから学びうるものはなにもなくなってしまいますにゃ。それは最も悪質な意味で死者への愚弄だ。


技術的合理性とか道具的理性とか全体最適化とか、そうした思考というものは、ホロコーストと地続きになってしまうのですにゃ。経営学トリアージときてホロコーストってのは、実に当然の流れだと僕も思う。

技術的合理性とか道具的理性とか全体最適化とかがダメだといっているのではにゃーぞ。それらは現実的に必要なものですにゃ。しかし、気をつけなければならにゃーのだと言っている。

ナチはその極限形態を示したけれども、全体最適化のためにある種のヒトを切り捨てるっていうホロコーストの思想はありふれたことですにゃ。

勿論、「ホロコースト」から「[絶対性][神聖性][唯一性]とかいった「タグ」」が外されることによって、高橋秀寿氏の言葉で言えば「コスモポリタン化」されることによって、色々と問題が起きている(起きうる)ことも指摘しなければならないだろう。
さて、「トリアージ」論争だが、私見によると、これは初歩的な(中学生レヴェルの)集合論の問題であるかのようだ。id:Apeman氏やid:hokusyu氏を批判している人たちの認識を、初歩的な集合論で解してみると、ある集合の元であるものたちはそのことによって全く同じになってしまうと思っているかのようだ。だからけしからんと。しかし、少し考えればそれは違うということはわかる。偶数という集合の元である2と4と6がイコールであるわけはない。他方はといえば、イコールではないということを前提として、或る集合(上から引用すれば、「技術的合理性とか道具的理性とか全体最適化」)の元として思考することによる認識的な利得を主張しているということになるのか。
合理性と野蛮の決定不能性についてはアドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』を読めということで片が付くとは思うのだけれど、これは或る意味で〈アダム・スミスマルクス問題〉*3にも通底するか。
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (SELECTION21)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (SELECTION21)

ところで、最初に引いたエントリーで言及されているエリ・ヴィーゼルについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070210/1171118502も参照されたい。ヴィーゼルを批判している「フィンケルシュタイン」というのも典型的なユダヤ人の姓。というか、あのダーマの姓だ。