「子供」そして「鳩」など

承前*1

感光生活 (ちくま文庫)

感光生活 (ちくま文庫)

またまた、小池昌代『感光生活』から。
「風のリボン」;


わたしには子どもがいないが子供には目がない。子供といっても、ある幅のなかにある子供が特におもしろい。下は五歳、六歳から、上は、せいぜい、九歳くらいまで。このあいだにある子供たちには、外側から容易になかへと入り込めない、分厚い熱を帯びた皮膜がはられていて、独特の空気感が漂っている。貴族的とでもいえる感じが、わたしにはたまらなく魅力である。それはまるで失せてしまうことがあらかじめわかっている、宝物のような、子供たちの秘密だった。
どんなに大勢の大人たちに囲まれていたところで、そうした子供は、彼ら大人たちの日常世界から、はっきりと断絶し、孤独な球体を形作っている。例えばある日のある子供は、ぼんやりとした目で、流れる水を見ていた。雲を見つめてあきない子供もいたし、ひとつの石をけりながら、いっしんに帰り道を歩く子供もいた。そうかと思えば、長いあいだ、土のうえを見つめてしゃがみこんでいる子供もいた。
どの子供たちも、この世では、無意味と名づけられている聖なる空間に、魂を投げ出すように生きていた。わたしたち大人が、常に、ある時点からある時点の、区切られた時間のなかでしか生きられないときも、彼らは底のぬけた、両端のない、途方もない黄金の時間を生きている。そのとき彼らのなかにある生命は、まるで熱帯の植物たちのように、みっしりと濃く充溢しながら、それぞれが唯一のものとしてそこにあった。そうした命のありさまを見ると、わたしはいつも、静かなよろこびで満たされたものだ。
見ているだけでも十分だったが、ときおり、彼らの身近に寄って、その身体に触れたりすると、手や足の思いがけない小ささに胸をつかれ、すべすべした肌の陶然とするようななめらかさに驚く。(pp.115-116)
私は今までこういう感覚を持ったことは全くなかった。
また、「鳩の影」;

野鳥が好きなわたしだが、鳩とカラスは例外だ。生理的にどうも好きになれない。鳩もカラスも人間をまったく恐れない。恐れないどころか、小馬鹿にしているような感じさえある。そのふてぶてしさが、妙に憎たらしい。
平和の象徴などといわれている鳩だが、わたしには、軽やかさのない、鈍重なものの象徴のように思われた。小鳥のように、空へ向かってはばたくことはなく、飛んでも、せいぜい至近距離。鳥でありながら、どちらかというと、地上に属した生き物のように感じられる。
ただ、あの翼の音だけは、聞くに値する。ばさばさと足元から、いっせいに飛び立つときの、不思議な恍惚を伴った不安感。普段はなだめられて心の奥の方に眠っているものが、いっせいに起きあがってくるような予感がある。(pp.130-131)
「鳩」といえば、町田康の「屈辱ポンチ」に印象深い描写があった*2
屈辱ポンチ (文春文庫)

屈辱ポンチ (文春文庫)

「鳩の影」の舞台は東京なのだが、鳩に餌をやる「みすぼらしい老人」(p.131)の科白;

鳩は可愛いわ、余計なこと、口にせんしな。自分のもとに群がり寄ってくるで。それに、いまの季節、こうやって集めると、ずいぶん、ぬくいでな。鳩の匂いも好きだわ、わし(p.134)
を読んで、これって関西系の言葉だよなと思い、一瞬何処が舞台なんだっけ、と当惑した。