「ふしぎな作用」

大竹昭子須賀敦子の旅路』の「はじめに」から。


どうやら、須賀敦子という人は、人々の心のなかにある一言では言い尽くしがたい部分を腑分けして、引き出してしまうところがあるようだ。単に文章がすばらしいだけではこうならないだろう。作品のなかにたしかな声をもった人々がいて、彼らの声が読む人を励まし、刺激し、生きることの深遠さについて考えさせる。それは、回想記でありながら自分のことを声高に語らず、むしろ自身を後退させて人間ぜんたいのことを綴ろうとする意志のこもった慈しみから来ているように思われる。もしかしたらこれは、六十を過ぎるまで「私」を押し出すことがなかったゆえに獲得できた視点なのかもしれない。世間のしがらみから一歩引いて物事を見つめる彼女の眼差しには、自分のことに奔走したり、やるせない出来事に汲々としたりしている私たちの呼吸を深くしてくれる不思議な作用が感じられる。(p.17)