建築と音楽(メモ)

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

ポール・ヴァレリー「エウパリノス」(清水徹訳)*1から。


ソクラテス つまり、人間を人間のなかに閉じこめるふたつの芸術があるわけだ。というかむしろ、ちょうどかつてのわたしたちの身体が眼の創造物に閉じこめられ、視界にとりまかれていたように、存在をその作品のなかに、魂をその行為と行為の産出物のなかに閉じこめるふたつの芸術がある。このふたつの芸術によって、人間はふたつのやり方で、石材なり楽曲なり、何らかのやり方で形象化された内的な法則と意志に包まれているのだ。
パイドロス よくわかりました。〈音楽〉と〈建築〉とはそれぞれわたしたちと深い関係をもっているのですね。
ソクラテス ふたつとも、ある感覚の全体を占有する。そのひとつから逃れるためには内的な切断によるしかないし、もうひとつからは移動によって出てゆくしかない。そしてそれらのいずれも、わたしたちの認識と空間を、人工的な真実により、また本質的に人間的な事象によって満たすのだ。
パイドロス つまり、どちらもじつに直接的に、何の仲介もなく、わたしたちにかかわり、当然おたがい同士のあいだでとりわけ単純な関係を保っているはずですね?
ソクラテス まさにそのとおり。何の仲介もなく、とは、きみもうまく言ったものだ。というのも、他の芸術や詩が借りてくる眼に見える事象、花とか樹々とか生きている人間たちとかは(そればかりか不滅の存在も)、芸術家によって作品化されるとき、あるがままのものであることをやめないし、それらの本性とそれら固有の意味とを、それらを用いて自己の意志を表現しようとするひとの意図へと混じえずにはおかないからなのだ。こうして、画家は、自分の画のある一部分が緑色であってほしいと望むとき、そこに一本の樹を描き入れるが、彼はそのことによって自分が原則として言おうとしていた以上の何ごとかを言ってしまう。彼は、一本の樹の観念から派生するあらゆる観念を自分の作品につけ加えてしまい、これだけで充分という地点に踏みとどまれない。彼は色彩を何らかの存在から切り離すことができないのだ。(pp.52-53)
抽象絵画は?