「理性」と「レトリック」――ホッブス、スピノザ(メモ)

承前*1

柴田寿子「古典をめぐる思想史学の冒険」(『未来』499、2008)からの抜書き。3回目。


そして政治理論と政治思想史の方法の相違は、スキナーが論じた「理性」と「レトリック」の違いとして考えることができる(Reason and Rhetoric in the Philosophy of Hobbes, 1996)。ホッブスは、一方では事実の明確な知覚と名の付与、そして明晰判明な定義から推論を重ねることによって、国家について無時間的な科学知(理性)を構成し、そうした合理的(功利的)で技術的な認識(理性)による制作可能な社会的次元を設定した。同時に彼は、国家の繁栄・内乱・滅亡の一連のプロセスを目撃した人が他の国をみて類似性を推測するような、アリストテレスのレトリックの伝統を汲む慎慮(prudens)による認識が、歴史書の読解なしにはありえないことを強調し、ヘロドトスペルシア戦争史からマキャヴェッリのローマ史論にいたる歴史書、また旧約聖書(彼にとっては歴史書政治書の一つにすぎない)やユダヤ教史やキリスト教史を丹念に研究した。しかも前者の認識(理性)に基づくリヴァイアサンの構成においても、神の命令による「自然法」のように、後者の認識に連動する宗教的道徳的要素を随時、理論に挿入せざるをえないのである。こうして政治理論と政治思想史とに対応する二つの認識方法が、方法や地平や次元の異なる相互に不可欠の認識として位置づけられた。
次世代のスピノザも二つの知の伝統を汲む形で、「数学的確実性mathematica certitudo」と「道徳的確実性moralis certitudo」という二つの異なる知の基準を立てるが、後者の知はきわめてコンテクスト主義的な認識へと変転する。後者の知とは、人々の「共同的生活様式(communis vivendi modus)」の知であり、それは、今日modus vivendiが「暫定協定」と訳されることから分かるように、当時キリスト教諸派の人々が教説や礼拝などの相違を超えて平和共存をするために了解し合った共通の道徳的宗教的格率のようなものである(スピノザはそれを普遍的信仰と呼んでいる)。スピノザの議論で面白いのは、こうした「共同的生活様式」の知は、『聖書』が時代と場所を越えて多様で無数の人々によって延々と読まれ続けてきた読解の歴史を通して現出し、しかも聖書とは別のテクストを読んできた文化との間にも、こうした普遍的信仰のような共通了解が可能であると考えられている点である。
こうした主張が成り立つのも、テクストの読解とは、たんに賢人や政治家が政治社会についての知識や教訓を得るためになされるものではなく、歴史的な集合的表象を読み解く手段である、という考え方が根本にあるからである。スピノザによれば、「歴史物語」を語る書物(『聖書』)から得られる知とは、そこに記された事柄そのものやその事実性にはなく、書物を一定の技法で読み解いた分析結果にある。それゆえ『聖書』からは、そこに記された言語の特性、文章の曖昧さや相互の矛盾、象徴性や読解の多様性、著作者たちの意図や生活や当時の風習、いかなる時いかなる民族によってどんなふうに読まれどんな運命を辿ったか、どんな多様な読みがあり、改竄・訂正の痕跡があるかなどの事柄が、読む取られるべきなのである。そもそもある書物自体が理性的真理や意図を表明しているわけではなく、我々の眼前にある書物は、言葉や象徴を介して、さまざまな感覚、伝聞、読解による「表象imaginatio」の束*2として成立している。つまり歴史を生き抜いた書物はすべからく、どこかの天才が書き残した遺書のようなもの(それではすべてのテクストは所謂「聖なる書」になってしまう)ではなく、それをテクストたらしめた多くの人々の反復読解がポリフォニックに反映された結果としてしか、いまここに存在しない、ということなのである。(pp.13-14)
See 「歴史から 学ばないバカ 学ぶバカ」http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080615/1213474957