テクストから(再び)書物へ

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071221/1198238160に少し関連して。

デリダの『グラマトロジーについて』の第1章が「書物の終わりとテクストの始まり」と題されていることは周知のことだ。デリダ的なというか、脱構築的なプロジェクト、特に『絵画における真理』において展開されていたようなそれを突き詰めるとすれば、再びテクストではなくて〈書物〉が回帰するのではないか。
適切な引用である自信はないが、読みかけのRoger Chartier「表象としての世界」から;


テクストは、それを支えている物質的な容れものなどとはまったく無関係に、テクストそれ自体において存在しているのだというイメージを文学研究はつくり出してきたが、このような見方に対し、テクストなるものは、それを読み手や聴き手に伝達する容れもの抜きには存在しないし、書かれたものがいかなるものであろうと、それが読者の手にわたる際の体裁とは無関係に理解されるなどということはありえないということを、あらためて指摘しておかねばならない。(略)
著者は、書物を書くのではない。そうではなくて、彼らはテクストを書くのであり、他の者たちが、そのテクストを印刷物に変貌させるのである。この両者を隔てる距離こそが、そこで意味――というかむしろさまざまな意味――が生み出される場となるのだが、このズレはあまりにもしばしば古典的な文学史によっても、「受容美学」Rezeptionsastetikの理論によっても忘却されてきた。古典的文学史は、作品をただそのものとして、つまりは、印刷された形態などとは無縁な抽象的なテクストとして考えているからであり、「受容美学」はといえば、読者が作品にふれる経験を歴史化しようと希っているにもかかわらず、テクストによって発せられる「信号」――それは一般に受け入れられている文学上の約束にもとづいて発せられているのだが――と、その信号が向けられている読者層の「期待の地平」との間には、純粋で直接的な関連性が存在することを前提にしているからである。このような受容の美学の見方にあっては、「生まれる効果」はテクストを支えているものの体裁とは、何らかかわりを持たない。しかし、実際には、ものの体裁もまた、読者のテクストに対する期待をつくり上げ、新しい読者層やいまだかつてないテクストの用法を生み出すのに大いに貢献しているのである。(二宮宏之訳、pp.190-191) 
歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学 (NEW HISTORY)

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La Verite En Peinture

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