「ショスタコーヴィチ」の構成され方(吉松隆)

吉松隆「「ショスタコーヴィチの証言」は偽書的「聖書」である」http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/shotakoTES.html *1


なかなか興味深いテクスト。とはいっても、「ショスタコーヴィチ」についても、ここで問題にされている『ショスタコーヴィチの証言』についても、一般常識以上の知識を持っているわけではないのだが。
吉松氏は『ショスタコーヴィチの証言』の形式的な問題について、


そして、この回想が「質問に対する応答の形式で行なわれた」とヴォルコフ自身が説明しているにもかかわらず全部一人称で語られる形式になっている点も致命的である。これでは全体の何%がショスタコーヴィチ本人の言葉で何%がヴォルコフの質問なのかが分からない。
と書いている。それで思い出したのだが、私はスタッズ・ターケルについて、

(前略)スタッズ・ターケル流のオーラル・ヒストリーの形式上の問題点は、インタヴューアであるターケルの言葉が消されて、独白であるかのように見えてしまうということだろうか。あらゆる言説は(懐かしい言い回しで言えば)状況づけられている(situated)というか、ある呼びかけ/問いかけへの応答として生起する*2。そのことが隠されてしまうということ。
と書いていたのだった*3
また、吉松氏はテクストを、

言うまでもなく「新約聖書」はキリストの死後、キリストの弟子たちによって編まれた複数の福音書からなっている。そこには、キリストが語ったという言葉と、キリストがしたという行為が記載されている。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネがそれぞれ残した福音書は、同じ時の同じイエスの言動でも必ずしも同じ記載ではない。しかも、マルコとルカの二人はイエスの死後の弟子であり、キリストとは一面識もない人物なのだ。

 この「聖書」によって二千年もの間人類史に刻まれてきたのは、ナザレのイエスという一人の生身の人間の真実の姿ではなく、この人物を神の子ととらえる「キリスト教的世界観」で見たナザレのイエスという人の言動記なのである。

 だから、マタイが信頼に足るべき人物か?とか、キリストを尊敬するあまり美化していないか?とか、どこまでが事実でどこまでが粉飾か?、という問いが研究者の手によって発せられることと、「聖書」によってキリストを信じる信仰心とは矛盾しない。

 同じように、ヴォルコフが信頼に足る人物か?とか、どこかを粉飾していないだろうか?という疑問があることと、この「証言」の真価は矛盾しない。

 ゆえに、この「証言」はいまだに私にとって音楽関係のものとしては戦後もっとも興味深い書物であり、何度読んでも飽きない不思議な含蓄ある言葉に満ちた奇妙な辞典であり続けている。

 歴史上の人物となったキリストが単なる一人の人間ではなくなったように、音楽史上の人物となったショスタコーヴィチもまた、もはや単なる一人の音楽家ではない。ただのソヴィエトの一青年が、交響曲を15ほど発表して作曲家ショスタコーヴィチになったように、死後さらなる研究やデマや想像や証言や粉飾や伝説を施されて真に世界の共有財産である「ショスタコーヴィチ」に昇華する。

 ショスタコーヴィチを形成するのは19年前に亡くなったドミトリ・ドミトリヴィチ氏一人ではない。彼を理解し誤解し、抑圧し擁護した多くの人々、彼の音楽を演奏し研究し、嫌悪し愛した多くの人々。そのすべてが「ショスタコーヴィチ」という音楽文化に組み込まれてゆくのだ。

 だから、ショスタコーヴィチは今も、そしてこれからも作られ続けるのである。

と締め括っている。この洞察は、「ショスタコーヴィチ」のみならず、すべての人格、さらにはすべて存在者の意味的構成に当て嵌まるといえるだろう。また、ここからデリダ流のcontre-signature(連署=反対−署名)という概念を想起するのも的外れとはいえないだろう*4

スタッズ・ターケルに言及したのだが、ターケルについて、2つの文章をマークしておく;


山川浩生「ターケル『仕事!』:まだ途中だが涙が出そうなほどいい。」http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120411/1334160981
桑原靖夫「20世紀の声:スタッズ・ターケル追悼」http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/91f986ad045fa530d670c71f150301be