小説家が詩を読むことは危険である(古井由吉)

辻 (新潮文庫)

辻 (新潮文庫)

大江健三郎古井由吉「詩を読む、時を眺める」(in 古井由吉『辻』、pp.321-366)*1から。
古井由吉の発言;


[外国の詩の翻訳を]経験して感じたのは、小説を書く人間が外国の詩を読んだり、まして翻訳したりするのは危険だということです。そんなことをすれば自分の日本語を失うかもしれない。ようやく束ね束ね小説を書いてきた自分の日本語が崩れて、指のあいだからこぼれ落ちる恐れがある。還暦も過ぎて何をやっているのか、何度もこんなことはもうやめようかと思いながら読んできました。
しかし、読んでいるうちに、束ねるも崩れるも同時のことなんじゃないかと思ったのです。つまり言葉というのは、すっかり束ねて畳んでこれでおしまいというものではない。のべつ束ね、のべつこぼれるものである。そう悟ったときに、「外国の詩を読んでたほうが小説家として少なくとも驕りはなくなるだろう」と覚悟を決めたのです。
壮年のうちは、築いたり固めたり構成したりということに頭が向かいます。老年になると違う。六十歳の頃から、崩れる危険の中で物事をすすめるというところに、仕事の場を見つけてきました。おかげで書くことに対する疑いがなくなったというのではなく、書く上では疑いそのものが生産的だとよくわかりました。自分の言葉が無になっていくという実感があったからこそ物が書けるようになった。こう束ね築くのは徒労かもしれないが、その徒労感と共にこそ意欲も出てくる。
ただし、今後も自分はそれでやっていくんだろうけど、気になるのは自分が読んだ詩人たちのギリギリの境地まで達しても、僕には救済の予感が少ないことです。最後にはひとふしの調べとする、と考える。そのときにリルケが予感していたのは調和ある調べのはずなのだけど、僕らにとっては不協和音かもしれません。でも、それはもう今に至っては覚悟しなければいけないことなのです。もし自分がここで書けなくなるとしたら、そういう不協和音が出てくることへの恐れで尻込みするのだと思います。(pp.337-339)