
- 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,林好雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/11
- メディア: 文庫
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承前*1
随分と時間が開いてしまったが、デリダの『雄羊』の読みの続き。
ガダマーの『私とは誰か、おまえとは誰か――ツェランの『息の結晶』注解――』(Wer bin ich und wer bist du? Kommentar zu Celans »Atemkristall«)で、註解されている「影の‐縞の中のいく筋かの道」という詩;
「祝福の幸運=機会(chance)について述べたもの」(p.31)。「ベネディクタ」という別の詩への言及(pp.31-32)。さらに、デリダは、この詩の「私はあの/石化した祝福を掘り起こす(wuhl ich mir den/versteinerten Segen)」が「大きな、赤熱した穹窿(GROSSE, GLUHENDE WOLBUNG)」(pp.24-26)の冒頭の「外へ‐そして向こうへ‐/みずからを掘る黒星‐群を/鏤めて(mit dem sich/hinaus-und hinweg-/wuhkeenden Scwarzgestirn-Schwarm)」と呼応しているという(p.32)。そして、
影の‐縞の中のいく筋かの道おまえの手の
四本-指の‐畝の中から
私はあの
石化した祝福を掘り起こすWEGE IM SCHATTEN-GEBRACH
deiner Hand
Aus der Vier-Finger-Furche
wuhl ich mir den
versteinerten Segen
(cited in pp.30-31)
まず、(この後との関係で)「折りたたまれた」をマークしておく。また、「まるで前もって獲得された祝福、人々が当てにすることができるような祝福、検証可能で、計算可能で、決定可能な祝福は、もはや祝福ではないとでもいうかのようだ」については、「ラテン系言語」における「思考すること〔penser〕と重さを量ること〔peser〕のあいだの、つまり思考と重みのあいだの親交」(p.29)について述べられた箇所*2を参照のこと。
「掘るwuhlten」、それは不安にかられて掘るという同じ動作ではないだろうか。そしてそのたびに、引っくり返しては探し回る、好奇心の強い、知によって駆り立てられる力の運動ではないだろうか。(略)祝福は与えられず、探し求められる。祝福は、手でもぎ取られるように見える。祝福は、問いただす圧力をかけて、自分自身の上に、その意味の折りたたまれた手を開こうと努める。手の方は、祝福のメッセージを依然として隠されたままにしておくだろう。祝福を授ける手は、こうして読むべきものを与えるが、その手が読解に対して覆い隠しているものを読むように呼びかける。手は、メッセージの意味を与えると同時にかすめ取る。手は、祝福そのものを引き留めるのだ。まるで前もって獲得された祝福、人々が当てにすることができるような祝福、検証可能で、計算可能で、決定可能な祝福は、もはや祝福ではないとでもいうかのようだ。祝福とはつねに、ありえないものでなければならないのだろうか。(pp.32-33)
ところで、ノートPCのACアダプター*3が日本から届いたという電話が先週末にあったので、嘉定まで取りにいく。今度は晴れていてよかった。次の日は、ヴィザの申請のために浦東へ。
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071102/1194030402 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071106/1194360131 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071112/1194806734 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071114/1194978112 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071116/1195171330 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071121/1195614055