「妙に生々しい、不穏な空気」

それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

承前*1

柳広司「らしからぬ不穏――夏目漱石『それから』」『図書』(岩波書店)826、2017、pp.40-44


何故『それから』は「あまり評判の良くない小説」(p.40)なのか問題。


生前の漱石をじかに知る弟子たちにとって『それから』は落ち着かない小説なのである。
妙に生々しい、不穏な空気をまとっている。
”らしからぬ不穏”というべきか。
男女の不倫関係を描いているから、ではない*2。友情と恋愛、ついでに言えば青春も、明治期に西洋からもたらされたフィクションであり、漱石自身はそのことを熟知していた。作品を読めばわかるが『それから』において漱石は不倫書いているのではなく、不倫書いている。恋愛と社会規範の相剋を「小説を面白くするための要素」として利用している。
おそらくそれが、生前の漱石を知る弟子たちを”落ち着かなくさせた”原因だろう。
読書体験が人々を魅了する理由の一つに「打ち明け話的特性」がある。文字を目で追い、物語りと一対一で向き合うことで、読者はあたかも「ここだけの話だが……」と著者に耳元で囁かれているような気になる。「君だけに打ち明けるのだが……」と、自分が特権的な立場にいる錯覚を覚えさせる。太宰治はこの特性を最大限利用した小説家だ。
『こころ』の高評価も、このメディア特性に支えられている。
何しろ主人公の「私」が謎めいた「先生」と出会い(徹頭徹尾「先生」らしくないが、呼び名が「先生」)、先生が誰にも漏らさずにいた内面の秘密を、最期に私だけに明かしてくれるのだ。ある種の読書好きにはこたえられない展開だろう。
漱石は、書こうと思えば、いくらでも「打ち明け話的」に書くことができる。
だが、『それから』では小説メディアが持つこの利点を敢えて捨てて書いている。作品は少しも「打ち明け話的」な感じがしない。耳元で囁かれている気がしない。
『こころ』が目の前の「私」に囁きかける小説だとすれば、『それから』は語り掛ける相手をもっと遠くに設定している。「広い世界」の「不特定多数」に向かって言葉が発せられている。
そのせいで『それから』は漱石の弟子たちにとっては落ち着かない小説となった。彼らは、自分たちの頭越しに遠くの見知らぬ誰かに話しかける漱石(=先生)の態度に不安を覚えた。己の拠るべき場所を剥奪されるような不安を覚えた。
彼らが感じた不穏さの正体は、馴れ合いを認めない突き放した漱石の創作態度であり、それが冒頭の「不自然」「作り物」「失敗作」といった評価*3につながったのだと思う。(pp.43-44)
こころ (新潮文庫)

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