篠原資明『ベルクソン』

ベルクソン―“あいだ”の哲学の視点から (岩波新書)

ベルクソン―“あいだ”の哲学の視点から (岩波新書)

篠原資明『ベルクソン−−〈あいだ〉の哲学の視点から』岩波新書を暫く前に読了した。ベルクソンについての入門書と称する本は色々とあるが、私の経験では、それらはわかりにくく、結局それならベルクソンの著作を直接読んだ方がいいだろうという感じになるのだが、この本はわかりやすい方だといえるだろう。


はじめに
I〈あいだ〉と生成−−われわれはどこから来たのか
II進化と痕跡−−われわれは何であるのか
III神秘系と機械系−−われわれはどこへ行くのか
おわりに
文献案内
アンリ・ベルクソン(Henri Bergson)略年譜
著者は自らの立場を「あいだ哲学」、「交通論」と呼ぶ(p.iii)。著者の『トランスエスティーク』という本を昔読んだことは記憶にあるのだが、遺憾ながら、その内容について記憶はない。
トランスエステティーク―芸術の交通論

トランスエステティーク―芸術の交通論

以下は抜き書き;

〈あいだ〉とは、たとえば過去と現在、生と死、人と人などの〈あいだ〉であり、わたしのいう〈あいだ〉は、扱う問題次第で、どんなものの〈あいだ〉をも指す。ともあれ、〈あいだ〉があるところでは、なんらかの交通が生起する。そして、それがどのような交通であるかに従って、当の〈あいだ〉のありようも違ってこようし、そもそも、どのような〈あいだ〉が想定されるかに応じて、そこで生起する交通のありようも区別されよう。(ibid.)
「無の先在という、旧来の存在論的な問いかけの前提そのものに異を唱えたのがベルクソンなのである」(p.9)。さらに、「無を前提とする思考そのものを否定することにより、ベルクソンは、無からの創造をつかさどる神を否定しただけでなく、旧来の存在論の前提そのものをも、つきくずしたのである」(p.10)。

通常、科学革命というとき、一六世紀から一七世紀にかけての物理学・天文学のことしか考えられていないように思われる。この種の科学革命に呼応するなり、依拠するなりした哲学者として、デカルトライプニッツ、カントの名は、哲学史上に大きくしるされることになるわけだ。しかし、アリストテレス自然学の否定は、天文学・物理学と生物学とにより、大きく二段階にわたり行われたことを忘れてはなるまい。(p.19)

われわれはどこから来たのか、という問いに、決定的な重要性をもつはずの事実が、第二次科学革命ともいうべき生物学によって提示されたのである。それを二点にしぼるなら、われわれは原初的な細胞のようなものから生成してきたということ、しかも枝分かれ的な進化のひとつの末端として生まれてきたということだ。(略)
にもかかわらず不思議なことに、一九世紀以後の大哲学者とされる人たちに、そのような事実とまともに向かいあった者がほとんどいないのである。その数少ない例外のひとりがベルクソンだ。アリストテレスに典型的な古いタイプの進化論と、一九世紀以後の新しいタイプの進化論を、ベルクソンは、それぞれ一直線的な進化論と分岐的な進化論として特徴づけている(『創造的進化』二章)。(p.20)
「現在と過去の同時生成」、「知覚と思い出(souvenir)との同時生成」(p.27)−−

もし知覚が思い出となるために、ひいては現在が過去となるために、その程度を弱めさえすればよいとするなら、知覚はのちに思い出となり、現在はそれが生起したのちに過去となるであろう。ところが、知覚と思い出とが、あるいは現在と過去とが、本性の差異をもつ以上、思い出は知覚と同時に生成し、過去は現在と同時に生成すると見なさざるをえない。(pp.28-29)
(『物質と記憶』4章から引用しつつ)

(略)過去を同一なまま反復できないようにする内的な力、それが記憶なのだ。決定論的な因果論者にとって、過去とは、それをさかのぼればさかのぼるほど、因果的な必然性を確証できる場であった。これに対して、ベルクソンにとっては自由は、ある意味でまさに過去からくる。それというのも、先の二つの側面[「思い出としての記憶」と「収縮としての記憶」]をそなえた記憶が、そのつどの新しさをもたらしてくれるからにほかならない。(p.33)
「収縮としての記憶が、自由な行動の根底にあるように思われる」(p.32)ということだが、「収縮としての記憶」の説明(pp.29-30)はそれほど明確ではない。これについては、『物質と記憶』及びドゥルーズの『ベルクソンの哲学』を再読してみなければならない。ともかく、「同じものの反復を超過するもの、同一性をはみ出る差異の過剰、そのようなものをわれわれはベルクソン的記憶に見出すことができるのだ」という文(p.33)は、私自身の来るべきアレント*1との関係でもマークしておく。
ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)

ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)

物質と記憶 (岩波文庫)

物質と記憶 (岩波文庫)


ありなし間の単交通的生成、それこそ、西洋中世の神学をとおして練りあげられ、近代以降も、人々の思考を支配しつづけたモデルだった。このモデルによれば、われわれは、ありなし間から来たのである。
ベルクソン哲学は、このモデルとそれによる解答に対抗する、もっとも有力な選択肢を提示してくれたように思われる。現在と過去の〈あいだ〉の異交通にもとづく生成モデルだ。(略)このモデルによれば、われわれは、いまかつて間から来たのである。(pp.49-50)
ここでは、「進化論」と「記憶」(「時間」)論との関係があまり明確ではないようだ。
大森荘蔵ベルクソンとの比較(pp.39-42)
ホワイトヘッドベルクソンとの比較(pp.43-44)

(続く)