労働、そして「脱DNA」

「働くを考える:若者が働きやすい社会のあり方とは」
http://book.asahi.com/special/TKY200711260161.html
http://book.asahi.com/special/TKY200711260162.html
http://book.asahi.com/special/TKY200711260163.html


先週、Mixiを通して、econthoughtさんに教えていただく。
本田由紀さんへのインタヴュー。その中で気になったのは、


――新卒採用は今、売り手市場だといわれていますが、せっかく難関を突破して正社員になれたのに、2〜3年で辞めてしまう若者が増えているという問題もあるようです。

 新卒採用で一番問題なのが、企業の採用基準が不明確な点です。どの企業もコミュニケーション能力や仕事への意欲など、いわゆる「人間力」のようなものを重視しており、採用の決め手は面接です。でも面接重視の採用は、恣意(しい)性や差別が入りやすい。なぜ内定がとれないのか、理由がはっきりしていないので対策の立てようもない。

 また今、企業の学生への要求水準は非常に高く、面接でも仕事への高い意識が求められます。そこで学生は必死で業界研究や企業分析をし、会社に入ったらこういう仕事をしようと高い意識をもって入社します。でもいざ入社して自分が携わる仕事は、期待していたほどレベルの高いものではなかったり、希望とは異なる職種だったりする。優秀で意識の高かった学生ほどやる気をなくしたり、新たな天地を求めて辞めてしまう。今後、このようなかたちで入社後に辞めていく若者はますます増えるでしょう。
http://book.asahi.com/special/TKY200711260162.html

という箇所*1
多分、近現代社会において労働とか職業といったものに対して賦与されている特権的な意味がそもそも問題なのかも知れない。それは私たちの常識に刻み込まれ、日常言語において日々表出され・再生産されている。ここで、井出裕久氏の言葉を引いておく;

手近な辞書をみると、「社会人」は「実社会で働いている人」と説明されている(『新明解国語辞典』第4版、三省堂、1989)。社会人が「働いている人」であるのは、そのとおりだ。だが、この「実社会」とはいったいどのような社会なのだろうか。学生が「実社会」にいないとするなら、どのような社会にいるのだろうか。同じ辞書で「実社会」を引くと、「実際の社会。〔……複雑で、虚偽と欺瞞が充満し、毎日が試練の連続であると言える、きびしい社会を指す〕」と書かれている。こうした厳しい社会で働いているのが社会人であり、学生は一応、そのような社会と無関係でいられるということなのだ。そうだとすれば、社会人を「社会の一員としての個人」とする語義説明(『広辞苑』第4版、岩波書店、1991)も一応うなずけるだろう。(「職業と社会階層」in 『ソシオロジカル・クエスト』、p.98)
そして、「(略)とりあえずこれらの辞書の説明を前提にすると、「実際の社会」で働いていない学生や子どもは、いわば〈虚妄〉の社会にいるとみなされ、したがって「社会の一員」とも認められていないことになる」(ibid.)*2
ソシオロジカル・クエスト―現実理解の社会学

ソシオロジカル・クエスト―現実理解の社会学

なお、労働や職業の意味についての最新の省察を巡っては、『ソシオロジカル・スタディーズ』所収の井出裕久、張江洋直「働くことの意味と〈仕事〉の信憑」を参照されたい。
ソシオロジカル・スタディーズ―現代日本社会を分析する (SEKAISHISO SEMINAR)

ソシオロジカル・スタディーズ―現代日本社会を分析する (SEKAISHISO SEMINAR)

また、多分http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070713/1184353368とも関連するか。

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20071119bk02.htm


「RNAの語感は「ありえねぇ」に似ていることに気がついた」という駄洒落がきつい、高橋秀実氏による武村政春『脱DNA宣言』という本の批評。先月日本に帰ったとき、この本の存在はちょっと気になったのだが、買わなかった。しかしながら、書評を読む限りだと、理系が文系の水準に、つまりロラン・バルトやらジュリア・クリステヴァやらジャック・デリダやらが出てきた水準に追いついたということでよろしいのでしょうか。

*1:本田さんの発言箇所は太字にして区別した。

*2:所謂無職の人もそのように扱われることになる。