Aura as Remainders

Remaindersについては、HonigのPolitical Theory and the Displacement of Politics*1を参照されたい。

Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

さて、


都会で生活していた人が、東北の温泉地に旅行へ出かける。旅行者は、そこで行われている生活が、自分の送っている生活とは異なっていることを認識する。そこで彼は初めて「私が送っている生活には『何か』が失われている」という感覚を抱くのである。つまり、「何か」とはそのような都会-田舎、あるいは現在-過去……という異なりのなかから遡行的にしか見出されない―― 生涯を都会で暮らしている人はそもそも「何か」を失っている感覚を抱かない。また、逆に言えば、田舎に住む人たちが「大切な何かをオラは持ってんだ」と思いながら生活をしているわけではない。「何か」とは都会と田舎を比較したときの、差分を埋め合わせるような意味合いで発生する。

 このように考えると「何か」とは、ヴァルター・ベンヤミンが使用する「アウラ」やテオドール・アドルノが使用する「浮動的なもの」といった言葉と似通った意味で使用されていることがわかる。ベンヤミンが「現代の複製・大量生産時代おける芸術作品からはアウラが消失している」というとき、その比較対象となっている「過去の芸術作品」が元からアウラを持っていた、というような意味を示してはいない。また同じように、アドルノが「直接的に言葉で何かを表現するとき、そこからは『浮動的なもの』が失われている」というとき、言葉で表現される以前の対象が浮動的なものを持っていた、というような意味を示していない。浮動的なものとは、言葉に置き換えたときに初めて「既に失われたもの」として見出しうるものである。そして、それは「何か」と同様、具体的なものを指示した言葉ではない。
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20071018/p2

また、

 手始めに、都会と田舎を比較したときに見出される「何か」に該当しそうなものを幾つか想像してみると良いかもしれない――すると「美味しい空気」、「温かい人間性」、「豊かな自然」……etcというようなリストができあがるだろう。書き手は、何も示さない言葉である「何か」を読み手に提示することによって、以上のような意味を汲み取ってもらえることを期待している。書き手の側では、以上のようなことの総体を「何か」で捉えようとしているのである。おそらく、書き手の側で総体としての「何か」を、個々に分割することはある程度可能であろう――「田舎には、美味しい空気とか温かい人間性とか豊かな自然があって良いよね!」というように。しかし、そのように具体的に示した場合、常に書き手は書ききることの出来ない残余に出会うことがある。さきほど出した例に従うならば、「……etc」の部分は「美しい空気」、「温かい人間性」、「豊かな自然」という具体例に含まれていない。このような残余に書き手が出会ってしまうことが、書き手が「何か」で表現してしまう理由となっているように思われる。
最初の引用に関しては、「区別という振る舞い自体が惹き起こす問題」*2と関連するのかも知れない。remainderにしても、それは割り算という操作によって生じるものだ。
ここでは、「書ききることの出来ない残余」を言語の構造的問題として、コメントしてみたい。何故、「何か」としかいえないものが生じてしまうのか。それは言語というものが有限のツールによって無限(現実、実世界)に対応しなければならないからだ。初めから言語はそういうハンディキャップを背負っている。だからこそ、〈真理〉をいうためには嘘をつかなければならないという事態も常に起こる(所謂比喩やアイロニカルな表現の問題)。何故日常的にそういう「残余」というか、現実と言語との量的差異があまり問題にならないのかといえば、日常的には言語はコミュニケーションに従属しており、「残余」はレリヴァントではないものとして、取り敢えず脇に置かれているからだ。例えば、機能システムにおけるバイナリー・コード化の機制とか。また、「残余」はその然るべき居場所に押籠められているともいえる。何かの分類をするとき、〈雑項〉とか〈その他(etc.)〉とか〈未分類〉というカテゴリーを作っておくように。話を戻すと、構造言語学的にいえば、これはシニフィエシニフィアンの間の不均衡の問題であろう。その不均衡を弥縫するためにも零記号が要請されることになる。レヴィ=ストロースの言葉で言えば、「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」。レヴィ=ストロースはマルセル・モースにコメントして、「マナ」を零記号であると解釈したのだった。
社会学と人類学 (1)

社会学と人類学 (1)

何だか、ベンヤミンアドルノレヴィ=ストロースを近づけてしまった。この3人を媒介するものとして、シュールレアリスムというのがあるか。
さて、最近「難解な文章」についての議論があるのを知る*3。詳しくコメントする余裕はないが、こうした問題にはコミュニケーションは命令に還元できるかということが絡んでいるんじゃないかと思いついた。もし、コミュニケーション=命令なら、〈難解な命令〉というのはそれ自体で充分すぎるほど逆機能的である。また、これに関連したhttp://cyborg.relove.org/thought/transmigration-of-author.htmlをブラウズしていて、Sperber & WilsonのRelevanceを見直してみたいと思ったが、日本に置いてきたことに気づいた。
Relevance: Communication and Cognition (Language and Thought Ser)

Relevance: Communication and Cognition (Language and Thought Ser)