緊縛と耳栓

承前*1

「人を「堕落させる」毒素(感情や欲望の解放)」*2を巡って、ホルクハイマー&アドルノ啓蒙の弁証法』の第2章「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」の「セイレーン」が出てくる一節(pp.85-86)を思い出す。オデュッセウスは帆柱に自らを緊縛させる。他方下っ端の水夫たちは耳に「蜜蝋」を詰められ、そのまま働かせられる。


彼は快楽の歌声に牽かれはするが、しかも快楽や死の誘いには乗らない。縛られたままで歌声を耳にしつつセイレーンたちの許に身を投じたいと思う点では、彼は何人とも異ならない。ただ彼は彼女たちの手におち、その餌食になってしまわないだけの手筈を整えている。
ここに抑圧(規律訓練)の2つの様式或いは階級的な区別を読み取ることはそう不自然なことでもないのだろう。ところで、その長いパラグラフの最後の部分である

幸福にして不幸なオデュッセウスとセイレーンたちとの出会い以来、あらゆる歌謡は病んでしまった。そして西欧の音楽はすべて、文明における歌声の不条理に手を焼いているが、しかし、そういう歌声の不条理こそ同時にまた、あらゆる芸術的音楽のために原動力を与えるものなのである。(p.86)
という一節は最初に読んだときは気づかなかったが、今回読み直して、ひとつの謎として現れてきた。
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (SELECTION21)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (SELECTION21)