佐藤亜紀「衝撃の大スクープ! 佐藤亜紀漫画から盗用 か?」http://tamanoir.air-nifty.com/articles/2006/06/post_9bf8.html
「エモ」というのはロックの或る種のジャンルを指す言葉でもあるので*1、エロと韻を踏んだ語感がいいとはいえ、ほかの言い方はないものかなと少しは思うのだが、〈萌え〉というものの本質を突いた語りだと思った。
実を言うならエモの人も大差はない。人間が涙腺を刺激されるメカニズムなど、萌えのメカニズムとほとんど一緒、眼鏡だの猫耳だのメイド服だのの代りに、難病だの生き別れだの死んだ恋人だのがあるだけのポルノだ。ちなみにエモい人の場合、条件反射以上の対処を要求されると「どうしてもこの小説の世界に入り込むことができなかった」とか言うことになっている。あのさ、小説の世界に入り込むなんざ土台不可能だろうが。あんたら、自分たちが市場に流通する小説の質を著しく劣化させているという自覚はあるのかね?
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080105/1199511204 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080108/1199795624
また、
「間テキスト性」を書き手の立場から省察したもの。ロラン・バルトとかジュリア・クリステヴァがintertexualiteという発想に辿り着き、そうした潮流は(その正誤は問わないが)俗に〈ポストモダン〉と呼ばれた。〈ポストモダン〉が極まって(窮まって?)、intertexualityによってとっくの昔に処刑された筈の〈主権的な作者〉が「市場」の力によって、(仮象であるかも知れないが)蘇生してしまったというわけ? 或いは、たんに成仏できないだけかも知れないが。
(前略)「読む」ことと「書く」ことは殆ど同じであり、読むことがそれまでに閲してきた全ての本の記憶を集約してこれから来る本へと流れて行くとすれば、書くこともまた然り。書き手はそれまでに閲してきた様々な書物やその他の経験を綯い合わせた結び目のひとつとして作品を書き、読み手は読むことで同様な経験の編み目をそこに結びつける。つまり作品とは、人間の記憶の広大な網の目の一点で、読むという疾走を通して、読み手の記憶と書き手の記憶がひとつに結び合う結び目である。これが、単に萌えたりエモったりしている限りにおいては絶対に目に入ってこない、読むことと書くことの基本的な条件だ。ただ単にエモるためには、作品がいかなる網の目の上に成立しているかは問題にならない。萌えに必要なのは条件反射と市場とのフィードバックだけだ。どちらの目からも、読むことも書くことも既存の作例からなる広大な網の中の一点にあるという認識はこぼれ落ちる。作品は単体で、或いは市場動向の中でのみ存在するものになり、その外側に根を張り必要な要素を汲み上げてくるなどということは理解の外に逐われる。別の作品との関係において意味が成立する間テキスト性という概念はそもそも存在しないか、存在するとしたらいとも簡単に「盗作」ということになる。悲しいかな、サブカルチャー全盛の十年で、読むことと書くことはそこまで退化したのだ。いや、動物化した、と言っておくかな。
間テクスト性について、以前書いたのを、備忘のために少し引用しておく。「文学の「カラオケ化」(斎藤美奈子)*2を巡ってのこと;
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071208/1197086548
このことを言語という側面から考えてみる。とはいっても、丸谷才一先生などが既に言っていることだ。洋の東西を問わず、前近代において、何かを書くということは先行するテクスト(言葉)を真似ること、或いはそれらにちょっとした変更を追加することだった。真面目であれお巫山戯であれ、典拠のある言葉を書くというのが通例だったわけだ。その端的な例が本歌取りというものだったろう。書き手にせよ読み手にせよ、直接的・間接的に典拠を知らなければ、そもそも書くこともできず、読んだとしても面白くなかったわけだ。近代になると、典拠とかいうよりも、対象をリアルに描けとか自分の心情を素直に表出しろといった要請が強くなった。そのためには、典拠或いは間テクスト性を意識させることは邪魔であり、言葉は対象や心情の背後に引っ込んだ、目立たぬ、できれば透明な存在であるべきだとされた。ところで、所謂ポストモダンにおいては、それが再度逆転する。パロディやパスティーシュ或いは引用が再度技法として積極的に肯定される。勿論、パロディが存立するためには、ネタ元(典拠)について知っていることが必要である。文学の「カラオケ化」というのは、近代的な言語観からすれば、当然の帰結であるともいえる。書くためには読まなければいけないのではなくて、書くため、対象や心情を書くためには、寧ろ読むことは邪魔なのだから。とすれば、一時期騒がれたポストモダンというのは何だったのか。それはそもそも超マイナーな現象にすぎなかったのか。それとも、言語観におけるバックラッシュがあったのだろうか。前者については、なるほどそうだと思う。しかし、言語観の(もしかしてそれにとどまらない)揺り戻しがあったとも思いたくなる。そういえば、1990年代の或る時期に駄洒落が〈オヤジ・ギャグ〉として蔑まれ始めるということがあった。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070127/1169915568