3つの準位そのほか

http://d.hatena.ne.jp/toled/20070923#1190541968


これを中心とする一連の議論を眺めながら、不図思うのは、素朴に考えて、教育、学校、社会化という社会学的な3つの準位の関係はどうなっているのかということだ。学校という装置は教育という機能が遂行されるひとつの手段にすぎないだろう。さらに、教育という機能は社会学的には社会化というより一般的な機能をひとつの様態にすぎない。学校を否定する。よろしい。では、学校という装置を経由しない教育という機能は肯定するのか、それとも否定するのか。また、仮に教育という機能を否定するなら(これは少なくとも理論的には全然問題ないが)、教育という仕方によらない社会化というのをどう想像するのか。これは素朴な疑問。
さて、


 腹減ったなー。よし、一杯やるか。お! 白木屋があるじゃん。ここに入ろうぜ。と、誘ってるのに、「白木屋はイヤだ。白木屋以外がいい」という返事が返ってきたら、ムカつきますよね? 白木屋がダメなんだったら、じゃあどこがいいっていうんだ。他にもっといいところがあるのか。具体的な対案もないのに「白木屋以外がいい」って何事? 10秒以内に別のより良い候補を挙げなかったら白木屋に入っちゃうよ! と言いたくなります。

白木屋に異議を唱える者も、ただイヤだイヤだと駄々をこねているばかりでは、対案がないならだまって白木屋について来いと恫喝する者と同じ穴のムジナなのです。ただ拒絶するだけでは、よりよい店を見つけるという課題を放棄していることになってしまいます。しかし、mojimojiさんは対案は絶対になくてはならないものだと信じています。なぜならば、「ある瞬間を空白にしておくことはできない」からです。

 しかし僕が言っているのは、まさに「対案についての思考」を停止せよ、ということです。

 これまで、教育をめぐって、様々な「対案」たちが争ってきました。白木屋よりも隣に和民があるよ。和民のクーポン券持ってるし。いや、和民も白木屋も似たようなもんだよ。男なら養老の滝だろ。電車で移動してでも行きたいよ。は? 何それ。そこのデニーズでマッタリするのが一番だよ。

 イリイチの『脱学校の社会 (現代社会科学叢書)』は、これに対して、いや、居酒屋なんか行かなくたって、その辺のコンビニでビールと魚肉ソーセージ買って多摩川で飲もうよ。夕日も見れるしさ。くらいのことは提案しました。

 だけれども、本を書きながらイリイチも薄々感じていたのは、それって、飲み食いをしているという点では、居酒屋に入るのと同じじゃんかということです。

喩え話なのだが、ここで疑問に思うことは、当初の行為(或いはそのプラン)を衝き動かしていた動因、例えば腹が減ったとか喉が渇いたはどこへ行ってしまったのかということだ。当初の行為(或いはそのプラン)を衝き動かしていた餓えや渇きは、引用の後半部に入るとともに、あれこれと思案しているうちに消散してしまったのだろうか。もしめでたく消散してしまったのなら、「対案についての思考」は既に不必要なわけだし、もし消散していないのなら、「対案についての思考」を「停止せよ」と言われても、それは緊急の課題であり続けている。
ところで、「学校は本来、人間の生活形態としては不自然なものだ」云々というのがあるが*1、このような自然主義的態度は慎重に避けられなければならないだろう。文化とはそもそも「不自然」なものであり、問題は自然/不自然にあるのではないだろう。英国及びその影響を受けた国では、最近まで同性愛はhuman natureに反するとして禁止されていたということを思い出すべきだろう。