河野哲也『道徳を問いなおす』

承前*1

先日、河野哲也*2『道徳を問いなおす――リベラリズムと教育のゆくえ』を読了した。
取り敢えず目次をメモ;


序章 これまでの「道徳」
第一章 道徳を語る準備――リベラリズムと教育
第二章 共に生きるための「道徳」
第三章 他者を知り、共感するために――エコロジカル・ケイパビリティ・アプローチ
第四章 道徳には哲学が効く


あとがき
参考文献

著者の主張を一言で表現すれば、「現代社会における道徳教育とは、リベラルな民主主義社会を維持し、発展させる働きを担う主権者を育成することに他ならない」(p.13)、「道徳教育とは、民主主義教育と同じものなのである」(pp.13-14)ということになる。またこの本は「心理主義*3批判という側面を持っている(pp.24-26)。これに関しては、著者の前著である『暴走する脳科学』の議論も併せて参照されるべきであろう。
暴走する脳科学 (光文社新書)

暴走する脳科学 (光文社新書)

大まかにいって、本書の議論は政治的にも哲学的にも共感するところが大である。しかしかなり根柢的な準位において違和感を感じた箇所もある。この本を読むと、、「道徳」と「哲学」と「政治」は全くテンションなくシームレスに連なっているかのような印象を受ける。しかし、(アレントが指摘したように)プラトン以来の西洋哲学史は哲学と政治の(敵対に近い)緊張の歴史であった。これについては、例えば陳高華『思考與判断 漢娜・阿倫特的哲学―政治之思』*4を参照のこと。「哲学」と「政治」の緊張関係を解きほぐし、そのために「哲学」と「政治」を再定義することが必須なのである。
また「リベラリズム」と「民主主義」が混同されており、そのために(例えば)カール・シュミットへの反論の説得力が減じているということがある(pp.53-54)。
それから、著者は「個人が目的であり、社会は個人のために機能すべき手段であり道具である」という(p.33)。その政治的な含意はともかくとして、社会理論という準位においては、「個人」と「社会」の間に功利主義的な関係を設定することによって、実体としては存在しない筈の「社会」を物象化・実体化してしまうことになる。