市場経済を消極的に擁護する?

Arisan曰く、「現行の市場経済、というよりも市場原理の熱心な支持者は、自分たちが信じる方法を「制限なく」拡大していくことが、人類のための最大の善である、と主張する」*1。多分、〈市場原理主義者〉と呼ばれる人たちはそうなのだろうと思う。特に、計画経済という競争相手を蹴落として以降は。
しかしながら、〈市場原理主義〉の教祖と呼ばれるハイエク(或いはフォン・ミーゼスもそうか)などの思考を考えた場合、本当にそうなのだろうかとも思う。寧ろ、市場経済の擁護を動機付けていたのは、さらに消極的な動機、計画する(そして再分配する)人間の理性への諦観とか計画(再分配)の暴力性へのおそれというのがあったのではないかとも思う。「最大の善」ではなく、より少ない悪としての市場経済の擁護。多分、市場経済を支持する人はこうした消極的な理由で支持しているのであって、この話は幾分かの一般性を持っているのではないかとも思う。「最も大事なのは、「いまここ」における自他の生存とその価値を全力で守ることであり、そうした現在の個別の具体的生の尊重にもとづかないような、どんな未来の「社会全体」の利益の構想も認めてはならない」ということには反対しない。ただ、市場経済へのオルタナティヴと目された計画経済は「現在の個別の具体的生の尊重にもとづかない」ものとして却下されたということは忘れてはならないと思う。勿論、〈市場原理主義〉へのオルタナティヴは計画経済(社会主義)だけではないだろうし、市場経済それ自身は遙か古代から様々な象徴的・社会的なアジャンスマンに拘束されつつ機能してきたといえる。〈市場原理主義〉の問題というのは、そのような社会的なアジャンスマンから離脱し、社会そのものを呑み込もうとしているということだろう。下郎に乗っ取られた貴族の家みたい。勿論、様々な象徴的・社会的なアジャンスマンによって市場経済を再び縛るという仕方もあるのだろうけれど、そうしたことは特に宗教的権威の下落という状況においてははたして可能なのか。これも再考されなくてはならないだろう。
以上、思いつきをメモした。