中国10億人の日本映画熱愛史 ― 高倉健、山口百恵からキムタク、アニメまで (集英社新書)
- 作者: 劉文兵
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2006/08/12
- メディア: 新書
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暫く前に、劉文兵『中国10億人の日本映画熱愛史』(集英社新書、2006)を読了した。著者は「本書は、一九七〇年代末から現在に至るまでの中国における日本文化の受容の歴史を、それぞれの時代において中国で流行した日本映画やテレビドラマを中心に辿っていく試みである」(p.15)としている。先ず目次を掲げておく;
先ず、著者は「表象文化論」専攻であり、内容(主題等)だけでなく映像の形式的側面*1への言及が新鮮であったということを述べておきたい。例えば、日本ではあまり評価されなかった中村登の『愛と死』について;
はじめに なぜ高倉健が張芸謀監督の中国映画に出演したのか
第一章 日本の光と影――文革直後の中国にとっての日本映画
第二章 ヒューマニズムとセンチメンタリズムの回帰
第三章 文革後の第四世代、第五世代にとっての日本映画
第四章 高倉健と山口百恵の神話
第五章 中国人はどのような日本映画を観てきたのか
第六章 八〇年代の日本のテレビドラマと中国の高度経済成長
結びにかえて 「酷文化」としての日本あとがき
一九七八年から九一年にかけて中国で一般公開された日本映画
注
主な参考文献
また、
(略)『愛と死』における紋切り型の場面の数々も、斬新な映画表現として受け止められた。たとえば、愛を告白しあった恋人たちの前を電車が勢いよく通過するシーン。雨の夜の車中で別れ話をする男女の表情が、滝のように雨が流れ落ちる窓ガラス越しに映し出されるシーン。ヒロインの死後、かつての恋人が、二人が始めて出会ったテニスコートを訪れると、誰もいない雨のテニスコートの映像に、亡きヒロインの笑い声やエコーのかかった声が響き渡るシーン。これらはけっして目新しい手法ではなかったにもかかわらず、中国の映画人たちに大きなインパクトを与えた。たとえば、第四世代監督の沈耀庭は、『愛と死』における演出を絶賛し、さらに第五世代監督にあたる江海洋も、一九八二年に北京電影学院に提出した卒業論文のなかで『愛と死』の車中のシークエンスを詳細に分析している。その結果、『愛と死』のさまざまなシーンのなかでも、とりわけ野外で恋人同士が戯れるシーンが積極的に模倣された。すなわち、雪景色、梅林、森、海辺などを背景として、派手なスカーフを手に、はにかみながら走り去る恋人の女性を、後ろから男性が追いかける様子を、さらにスローモーションで撮影するといった、少々気恥ずかしくなるようなシーンが、当時の中国映画のなかに頻繁に出現するようになったのである(pp.61-62)。
さらに、当時の中国の映画人たちが、自身の作品のなかで『愛と死』の有名なシーンを繰り返しコピーしたこともまた、一過性の流行として片づけられない意義をもっていた。すなわち、文革期において恋愛を主題とすることを長年禁じられてきた彼らは、『愛と死』を模倣することを通じて、失われた恋愛描写のコードをあらためて学び直すことによって、演劇的なものに頼ることのない映画的な表現言語を獲得していったのである。(略)『愛と死』が中国映画に与えた影響は、たんなる恋愛描写というレヴェルにとどまることなく、とりわけ第四世代監督たちの作品において、撮影、編集、音響といった映画技法の面まで幅広く及んでいくこととなるのである(p.63)。
ほかに日本映画の影響としては、例えば、
(略)一九八二年に江海洋監督が北京電影学院に提出した卒業論文のなかでも、ストーリーの展開よりもセンチメンタルなムードを重視する点において、『愛と死』と、第四世代監督楊廷晋の代表作『小街』(一九八一年)とが類似していることが指摘されている。(略)このあと、カメラワークやBGM、ショット繋ぎによってセンチメンタルなムードを醸し出すことが、第四世代監督のメロドラマ映画の常套的手段となったが、『愛と死』はまさにその出発点になった作品の一つであった(p.91)。
一九七〇年代末に、第四世代監督を代表する黄建中、楊廷晋、滕文驥、呉天明は、それまで自由に使うことが許されなかった、フラッシュバック、スローモーションやズーム、カラーとモノクロ映像の併用、映像と音声の対立といった技法を積極的にもちいることで、新しい映画表現を生み出すことを試みた。そして、その際に、彼らが大いに参考にしたのが、『君よ憤怒の河を渉れ』『サンダカン八番娼館』『人間の証明』『金環蝕』『華麗なる一族』『砂の器』といった日本映画であった。たとえば、一九七九年に張愛忻監督と映画理論家李陀は「『サンダカン八番娼館』が我々に映画的な物語構成の一例を提供してくれた」と高く評価し、当時の代表的な映画理論家邵牧君もまた、『人間の証明』の洗練されたエンターテイメント性やフラッシュバックといった多彩な映画技法を絶賛している。さらに当時の映画雑誌には、『君よ憤怒の河を渉れ』におけるストップモーションや、悪役のキャラクター造形、『あゝ野麦峠』の音響効果、『砂の器』のコンサートのシーンにおけるモンタージュ技法を中国映画も参照すべきだといった主張が散見されるのである。
そして、これらの日本映画を模倣したシーンは、当時製作された中国映画のなかに数多く登場する。たとえば、サスペンス映画『神女峰的迷霧(神女峰の霧)』(郭宝昌監督、一九八〇年)では、容疑者の女性(陳肖依)が警察の取り調べのなかで犯行を自白するとき、シンセサイザーによる大袈裟な音楽が唐突に流れるというシーンがあるが、それが『人間の証明』のヒロイン(岡田茉莉子)がみずからの犯行を告白してしまう場面をもしたものであることは明白である。また、恋愛映画『遅到的春天(遅く訪れた春)』(馬紹恵、太鋼共同監督、一九八〇年)の主人公が紅衛兵に殴られる場面において、失神した彼の顔のアップが逆さまの状態で映し出されるショットも、『サンダカン八番娼館』における売春宿のシーンときわめて類似している。さらに、林彪事件の黒幕を描いた『瞬間』(趙心水監督、一九八〇年)のラストで、ピアニストのヒロインがコンサートで演奏するシーンと、恋人のパイロットが殉職するシーンが交互に映し出されるシーンも、明らかに『砂の器』を意識している(pp.88-89)。
あと、気になったところを抜き書きしてみる。
また、第五世代の映画人が一九八二年に北京電影学院に提出した卒業論文からも、当時の彼らに日本映画が与えたインパクトの大きさがわかる。すなわち、陳凱歌と監督科で同期であった江海洋は『遥かなる山の呼び声』と『愛と死』を、張芸謀の撮影科同期生の梁明は『風立ちぬ』を、美術科の張秉堅は『サンダカン八番娼館』『天平の甍』『遥かなる山の呼び声』『未完の対局』を、俳優科の張豊毅は『君よ憤怒の河を渉れ』『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』における高倉健の演技を、それぞれ取り上げている。また、張芸謀がカメラを手がけた『黄色い大地』(原題『黄土地』陳凱歌監督、一九八四年)におけるフィックスの長廻しのカメラワークは、『泥の河』(小栗康平監督、一九八一年)に影響されたものである。
(略)一九七九年から八〇年にかけて北京電影学院内で繰り返し上映された『砂の器』は、当時の若き映画人たちにとって特権的な作品の一つとなった。『砂の器』の前半部には、焼けつくような夏の日差しのなかで聞き込み調査をおこなう二人の刑事をロングショットで撮った印象的なシーンがあるが、それと類似したカメラワークは、(略)第四世代監督の書作品――『沙鴎』『我在他men中間(私は彼らのなかにいる)』『見習律師(司法修習生)』――に見いだすことができる。しかし、『砂の器』からより大きな影響を受けたのは、むしろ第五世代監督であったと思われる。たとえば、『砂の器』では、屋根や大木の一部を故意に画面の前景に据えつつ、シネマスコープをもちいて画面奧の人物を撮るという独特の構図が数多く見られるが、初期の第五世代監督の作品である『一人と八人』(原題『一個和八個』張軍〓*2監督、一九八四年)や『黒砲事件』(黄建新監督、一九八五年)においても、そうした構図が多用されている。また、陳凱歌監督の『黄色い大地』や『子供たちの王様』(原題『孩子王』、一九八七年)に頻繁に登場する、橙色を背景にした登場人物のシルエットを映したショットは、『砂の器』の冒頭の、朝日が差す海岸で砂の器をつくる子供のシルエット姿を強く想起させる。従来の中国映画においては、左右対称の端正な構図や、登場人物の顔がくっきりと見えるように配置された照明が基本とされていたが、第五世代監督たちは、そうした過去の中国映画の言語体系を打破するために、意図的に大胆な視覚表現を盛んにもちいた。その際に、第五世代監督が暗に参照したと思われるのが『砂の器』である。おそらく彼らは、『砂の器』が含んでいたさまざまな可能性をさらに展開させることで、独自の映画表現を築き上げていったといえるかもしれない(pp.96-97)。
「文革直後の中国の人民にたいして、いまだ見知らぬ資本主義世界をスクリーン上で疑似体験するという機会を提供した」(p.23)『君よ憤怒の河を渉れ』について;
また、高倉健の受容の背景のひとつとして、中国映画の伝統における「女性優位の構図」(p.130)への反動が挙げられている;
さらに、『君よ憤怒の河を渉れ』ブームの背景には、一九四九年以降の中国映画において、都市への欲望が厳しく抑圧されていたという経緯があったことを見逃してはならない。「革命の勝利を収めた農村が、取り残された都市を包囲する」という毛沢東による中国革命の戦略の反映として、農村が革命の担い手として称揚される一方、物質文明が進んだ都市は、革命の文脈においてむしろ立ち後れている存在と見なされた。新中国建国以後、都市を描いた映画がごく僅かしか製作されなくなったのは、その端的な表れである。さらに、都市は、堕落した西欧のデカダンス文化の産物として否定されるべきものであり、モダニズム的な要素がしばしば諷刺の対象とされた。たとえば、ブルジョア的な登場人物を下から照明を当ててわざと不気味に映し出したり、ジャズやネオンをパロディー的にもちいることで都市生活の軽薄さを批判することが、中国映画において頻繁におこなわれていたのである。(略)従来の中国社会の価値観においてブルジョア腐敗文化としてネガティヴに捉えられていた都市が、『君よ憤怒の河を渉れ』において、初めてポジティヴなものとして登場したことによって、中国の観客が受けるカルチャーショックは計り知れないものとなったのである(pp.26-27)。
「高倉健主演のヤクザ映画は中国で上映されていないが、もし文革初期の中国で『昭和残侠伝』シリーズが上映されたならば、紅衛兵世代はそれを熱狂的に支持したにちがいない」(p.136)として;
(略)中国映画においては、カンフー使いといった、もともと男性が演ずるべき立ち役を女性が演じるというように、女性が常に男性の代替として機能している。その理由としては、まず第一に、中国において伝統的に、マッチョな男らしさを、低次元のものと見なす傾向が強かったことが挙げられる。中国において、文化の担い手となるのが文人であり、そのため文人的要素を欠落させたマッチョな男性像は、刹那的で衝動的な言行と結びつきやすいネガティヴなものとして捉えられてきたのである。
さらに、第二の理由として、これまでの中国映画において、マッチョな男性のイメージは、社会における暴力や権力構造を否応なく喚起させてしまうために、むしろ、女性身体を媒介として暴力性を表象しようとしたことが挙げられる。すなわち、剥き出しの男らしさを描写するかわりに、女性身体にマッチョな男らしさの諸機能を担わせることによって、男性ではタブー視される暴力性の演出に緩和作用が加えられたのである。男性の身体性がほとんど抑圧されていた時代が長く続くなかで、女性身体にたいするフェティッシュな欲望と結びついたカメラワークが男性にもちいられることは稀であった(pp.130-131)。
また、山口百恵を巡って;
また、高倉健の後期の映画が中国で上映されたのは、ちょうど中国人が文革によって心に深い傷を負った時期と重なる。毛沢東神話が崩れた当時の中国人は、頼るべき存在を失い、心の支えとなるものを探していた。一九六三年から七四年にかけて日本映画最大の流行であった東映任侠映画の作品群を鶴田浩二とともに支えていた高倉健も、ヤクザ映画の終結とスターシステムの崩壊とともに、それまでのパターン化された役柄を離れて、さまよわざるをえない状況に置かれていた。そのため、高倉健ほど、荒廃した文革後の中国人の心情をつかんだ俳優はおらず、また、当時の中国人ほど高倉健が演じた役柄をよく理解したものもいないだろう。偶然の一致ではあろうが、両者は異なった社会的状況に置かれていたにもかかわらず、辿ってきた歴史的軌跡に類似性が存在しており、そこに共通の力学が働いていたからこそ、高倉健が広く模倣され、またそのイメージが利用されたのである(pp.136-137)。
(略)一九四九年から文革終焉までの中国映画における女性像は、一様に性差が抹消されていた。おかっぱ頭に化粧気のない顔、がっしりとした体躯、眉間にしわを寄せてけっして隙を見せない、というのがそのトレードマークである。ハリウッド俳優を彷彿とさせるような身体、あるいは伝統的な京劇の身振りコードを取り入れた身体は、国民党の女スパイやブルジョア的女性などの悪玉にしか適用されなくなった。つまり、社会主義国家における生産に直接携わるべき新しい女性像には、常に性的なものにたいする抑圧が伴っていたのである。このように、文革期の中国においては、女性美のもつ欲望をかき立てるセクシャルな側面が退廃的なものと見なされ、抑圧されつづけたが、文革後、そうした欲望が、山口百恵を捌け口の一つとして、一気に噴出したのである(p.141)。
また、総括的に;
(略)中国における山口百恵の写真の流通の猛烈な勢いは、文革期における毛沢東の肖像の流通を想起させる。毛沢東時代においては、古代から近代に至るまでの伝統的な美人画の廃止とともに、それにかわるかたちで毛沢東のアイコンが伝播した。しかし、文革終演後、毛沢東の肖像がほとんど姿を消したとはいえ、流通ルートは残存しており、山口百恵の肖像がそのルートに乗って増殖したのである(p.139)。
なお、本書の第三章では文革までの中国映画史が、第四章では中国映画における「日本人イメージ」の変遷が、第五章では中国における日本映画受容史が語られている。これらに関しては、また改めて。
[「一九七〇年代末から80年代初頭まで」]当時の日本の映画やドラマは、エンターテイメントの次元を超えて、文革による精神的な自閉状態からの脱出、喪失してしまったヒューマニズム的な家族愛や男女愛の奪回、倫理観とモラルの再建、さらに近代化路線を推進する中国のメンタリティーの形成にまで、絶大な影響を及ぼしたのである。しかしながら、九〇年代以降、中国においてまた大衆娯楽の主流が映画からテレビにシフトしたこと、九二年に中国での「日本映画祭」が打ち切られたこと、さらにハリウッドの大作映画の輸入が本格化したことによって、近年の中国における日本映画の存在感は著しく弱まっている。それにたいして、九〇年代後半において、かつての日本ブームを受け継ぐかのようにポピュラーとなったのが日本のトレンディードラマやアニメであり、それらは、中国の若者たちを「酷文化(クールなカルチャー)」として魅了したのである。ちなみに、「酷」というのは「cool」の当て字であるが、ここではもとの意味に加えて、個性、自由、流行の代名詞となっている(p.196)。
著者は張藝謀の『単騎、千里を走る』への言及で本書を締めている(pp.208-209)。この映画についても忘れないうちにメモしておかなければいけないことは多々あるのだが、この映画のレヴューとして、http://d.hatena.ne.jp/medusahime/20060206/1139188644を取り敢えずマークしておく。
ところで、本書では、日本と中国大陸というダイアド的な構図が使用されているが、特に90年代以降においては、両岸三地(中国大陸、台湾、香港)の文化的な緊密化ということを前提としなければ、日本文化理解も難しくなってきたといえるだろう。