「文革」と「経済成長」

高原明生、前田宏子『開発主義の時代へ 1972-2014』*1からメモ。


文革中国経済を破壊したというイメージが強いが、実は文革期に中国の経済は成長していた。同時期には労働人口は増えたが、賃金はほとんど上がらなかった。つまり、消費を抑えて投資を増やすことにより確保した経済成長率であった。ゆえに人々の生活は貧しく、投資も効率が悪かった。それにもかかわらず成長率が高かった原因は、おそらく当時の地方分権*2、つまり地方政府への権限移譲政策にある。地方は財政収入を増やし、雇用機会を創出するために、地域経済を活性化しようと積極的に投資を行った。(略)
六六年から七五年までの一〇年間の経済成長率は高く、とくに混乱の大きかった六七、六八年はマイナス成長であるが、六九年以降の伸びは非常に大きかった。この点に関し、統計が間違っているのではないかという説もある。確かに、当時の統計に正確さを求めるのは難しい面もあるが、その時期の前後の経済規模を比べてみれば、その間の成長率の計算を大きく間違えることはないだろう。(pp.12-13)
文革期中国の年間成長率(%)は、


1966 +10.7
1967 -5.7
1968 -4.1
1969 +16.9
1970 +19.4
1971 +7.0
1972 +3.8
1973 +7.9
1974 +2.3
1975 +8.7


である(p.13のグラフ)。


文革がもたらした混乱は当然、経済面にも波及し、六七、六八年の二年間は国民経済の年度計画すら作成できないような状況であった。周恩来は第三次五カ年計画の最後の年である七〇年に、それまでの遅れを取り戻すべく、二〜三月に開催した全国計画会議で大々的な工業再編の方針を決定し、国務院直属企業と事業単位の大半を地方の管理に委ねることにした。だが、多くの企業や事後湯の管理を突然任された地方政府に十分な管理能力が備わっていたはずもなかった。周恩来は七三年の全国計画工作会議で、中央の統制強化や、企業管理における権限と責任の明確化などを盛り込んだ「経済工作十条」を提出し、七〇年に行った改革の調整に取り組もうとしたが、張春橋らの上海グループの反対により実現を阻まれた。(p.14)
インプット(マネー、労働力など)が増えればアウトプットは必然的に増えるということについては、例えばポール・クルーグマン「アジアの奇跡という幻想」(in 『良い経済学 悪い経済学』)とか。
良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)

良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150720/1437412159

*2:毛沢東文革を始めるときに、南方の地方を回り、地方の指導者たちと会議を次々と開き、中央統制主義的な政策を批判して、それをひっくり返していくということを行った」(pp.13-14)。