中島隆博「存在と道徳への問いなおし」から

張江さんが中島隆博氏に言及している*1。何だ、お友達だったのか。
それに触発され、中島さんが翻訳したフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』

道徳を基礎づける―孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社現代新書)

道徳を基礎づける―孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社現代新書)

に「解題」として付せられた「存在と道徳への問いなおし」というテクストを再読してみた。
この中で、中島さんは「カントと一歳違いの同時代人であり、清朝考証学の泰斗と目される戴震」(pp.296-297)を採り上げている。
戴震は、「孟子的な内在の道」から出発し、「ただ食べるのではなく、味わうこと」という「カント的な意味での趣味的判断」を通して、「ある種の公的空間を切り開こうとした」(p.300)。これは、「『判断力批判』において、カントが存在(自然)と道徳(自由)の間に橋を架けようとした時に、趣味判断の主観的普遍性を一つの足掛かりにしようとしていたことと、同時代的に呼応しているのである」(p.301)という。さらに、「ハンナ・アーレントがこのカントの議論を、政治的な次元に転換し、政治的公共空間の根拠として読解しようとしたことを参照すれば、中国思想における「政治的なもの」を、ジュリアンの断定とは異なって、その可能性において読み直すことができるだろう」(ibid.)ともいう。
「ジュリアンの断定」について。例えば、

孟子は中国において、民を政治的事象の「基礎」とする点で、最も先進的であった。その「基礎」は、天という基礎に通じ、それに応じているだけに、正当なものである。あらゆる事象は、天から生じるからである。しかしその孟子も、民が「本」であるだけではなく、また「主」でもあろうとする政治制度(ルソー的な意味での「主」であって、「本」ではない)を考えるには、もう一歩踏み込めなかった。それは中国においても、君主制以外の政治形態が想像されていなかったからである。異なる諸政体を比較することは、西洋ではギリシア以来馴染み深いが、中国人の琴線に触れるものではなかった。そのため、孟子は民主的な諸制度が何であるのか(同時代のギリシアでは*2すでに確立され議論された制度であり、選挙や議会制度が問題となっていた)について、わずかの考えもなかった。したがって、民意は、確固とした地位を与えられず、正規の権力として示されなかったのである。民意は、天の命令を代理するにもかかわらず、中国全史を通して、その意見が求められたことはなかった(pp.241-242)。

*1:http://harie.txt-nifty.com/annex/2007/03/post_a445.html

*2:ウィットフォーゲルを参照した柄谷行人によれば、それはギリシアが「中核」(エジプト)に対する「亜周辺」だったことによる(eg. 『世界共和国へ』、p.36)。また、柄谷氏曰く、「プラトンが哲学者=王が支配するような国家を考えたとき、エジプトが念頭にあったあのです」(p.56)。