「普遍化することを諦めない営為」(中島隆博)

承前*1

中島隆博「世界哲学史から世界哲学へ」『ちくま』598、pp.10-11、2021


ちくま新書の『世界哲学史』完結に因んで。


(前略)世界哲学は可能性の延長線上ではなく、可欲性の次元にあるものだ。それは、「できる」ものではなく、「欲する」ものである。世界哲学などどこにもない。それは、世界の諸地域にある諸哲学を集めたものでもなければ、世界的に言説の権利を支配するような哲学でもなく、今ここで未来に向かって作り出されるものなのだ。したがって、「世界」と「哲学」の関係は、決して安心できるものではなく、その間には緊張が常に走っていた。世界哲学は、世界と哲学をあらたに構想するとともに、その関係をも問い直し続けなければならなかったのだ。
しかも、わたしたちがプラットフォームにしたのは、世界哲学ではなく世界哲学史であった。つまり、「世界」と「哲学」に加えて「歴史」というさらにやっかいな概念を持ち込んだのである。(略)哲学と歴史の関係は複雑で、時には互いに背を向けることもあれば、哲学が歴史が想定する歴史概念を揺さぶったり、逆に歴史が哲学を相対化したりすることもある。そのため、世界哲学史は、カント的な普遍史ヘーゲル的な哲学史に陥ることなく、歴史に対する別の語り方を準備する必要があったのである。第一巻で納富信留さんが「起源」を繰り返し問い直したゆえんである。(pp.10-11)

(前略)あらためて世界哲学とはなんであるのだろうか。わたしはそれを普遍化することをあきらめない営為だと捉えてみたい。それは、ヨーロッパ近代哲学の「普遍性」に寄りかかるのでもなければ、地域哲学の「固有性」に閉じこもるのでもなく、概念が異なる環境において旅をし、翻訳され続けることで鍛えられ、普遍化されてゆくことに注目するということだ。たとえば(略)「哲学」という概念自身がそうである。philosophyが東アジアにおいて哲学と翻訳されたことも、ひとつの旅なのだ。それは次に、哲学の翻訳を呼び求める。それは再びphilosophyと訳してもかまわないにしても、それは根底から刷新されたphilosophyでなければならないということだ。(p.11)