「未開」の捏造からフィクション/ノンフィクションの区別へ

人類学者の小田亮氏が「はてな」でblogを書いていることを知る*1
TV業界界隈では2007年が開けて以来、「納豆」問題*2を皮切りにヴァラエティ番組における「捏造」問題で揺れているわけだが、http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070130によれば、吉岡政徳氏がフジテレビによるヴァヌアツやニュー・ギニアにおける「未開」の捏造を告発している*3
吉岡氏のテクストを読んで、先ずTV業界関係者の「未開」観に呆れるとともに*4、ヴァラエティ番組というものの位置づけについて考えてしまった。取り敢えず(その境界線は実際には曖昧であり得るにせよ)フィクション(ドラマ)とノンフィクション(ドキュメンタリー)というジャンルがある。前者の場合、わざわざ(例えば)その終わりにフィクションですという字幕を入れなくても、最初から視聴者はそれが(フィクション)であることを前提にして番組を享受している。だから、そもそも捏造云々というのは問題にならない*5。捏造とかやらせが問題になるのは、ノンフィクション、ドキュメンタリーとかニュースの場合である。ヴァラエティ番組の場合は、その区別を曖昧にしているといえる。さらに、(これはワイド・ショーやニュース・ショーでもそうなのだろうけど)ヴァラエティ番組は或る種のメタ・ナラティヴでもある。つまり、映し出された映像のリアリティがstudioにいる藝能人や素人のコメント*6によって保証されたり、相対化されたりする。ということは、映し出された映像が捏造であっても、コメントによってそれが真実化されるということもあるわけだ(その逆もある)。
フィクション(ドラマ)は勿論である。そこで要求されるのは、ひとつの意味領域における一貫性だろう。しかし、(アニメでない限り)ドラマに映し出される全てがフィクションであるわけではない。勿論、全てのシーンをセットで撮影したり、CGにしたりするということは可能だろうけど、大方のドラマでは実在する場所でロケを行う。その場合、役者の演技とか台詞はフィクションであっても、その背景である場所は実在のものである。ここにおいて、実在がフィクションを侵触(侵略)するという可能性があり、そのことが映像の快楽を産み出したりするのだが、それは措いておいて、実在が図ではなくて地に留まる限りで、それを操作することによって、悪しき効果が生まれてしまう、主題ではないので却って無反省的な刷り込みが生じてしまうというのが、吉岡氏の『あいのり』批判*7の要諦だろう*8。操作(捏造)された地をそれとしてそのまま見過ごしてしまうのは、視聴者の側の常識的知識(あの国だったらこれもありだろうとか)であり、作り手の側もそうした視聴者側の知識を見込んで操作を行うのだろうから、捏造を批判する場合には、作り手の(善意であるかも知れない)悪意だけが問題なのではなく、視聴者の側の常識的知識及びそれと作り手の側との相互依存(共犯)関係が問題にされなくてはならない。
どうも中途半端且つ凡庸なことしか書けなくて、落ち込む。

*1:http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/

*2:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070222/1172109130

*3:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Ibunka/kyokan/yoshioka/yoshioka-tv.html

*4:さらに捏造の努力にも拘わらず、多くの場合、捏造の痕跡が残ってしまっている。

*5:そこにおいて起こりうる問題については後述。

*6:これは通常メタ・コメントと謂われるもの、つまり表情やらイントネーションやらも含む。

*7:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Ibunka/kyokan/yoshioka/nariyuki.html

*8:『あいのり』がフィクションなのかノンフィクションなのかということについて、吉岡氏は判断を保留しているようだが、ここでは取り敢えずフィクションだと仮定する。