「仁丹」或いは世代の条件

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070222は面白かった。「仁丹」を知らない学生アルバイトの話をとっかかりに、「仁丹」の歴史を調べる。勉強になりました。亜細亜で「仁丹」を超える薬のブランドといえば、「タイガー・バーム」かというのはさておき、「仁丹」については森下仁丹が「森下仁丹歴史博物館」というサイトを設けている*1。私の世代の記憶でいえば、仁丹の社長の森下泰という人は自民党参議院議員として活躍していた。また、たしか高校時代だったと思うが、「梅仁丹」というのが異様なほど流行ったのだ。
それはともかくとして、matsuiismさんは「たぶん十年くらい前、私が飲食店で働いていた頃、バイトの女子高生が「ブルース・リーを知らない」ことがわかって愕然としたことがあるが、以来、若い人たちには「知らなくて当然」のことがあってもおかしくないのだと思うようにしている」と書いている。
以前から〈世代論〉を(それも現象学的批判という仕方で)やろうと思いながら全然手を着けていないのだが、思いつきをちょろっと記してみたい。世代というのが間主観的事実として存立するためにはgetting older togetherという感覚の共有が必要である一方で、具体的に〈XX世代〉が想像の共同体として存立するためには、結集軸としての具体的な歴史的出来事や物が必要である。例えば、ビートルズとか大学闘争といった出来事を同時代的に、また同じような年齢において経験したということによって、世代という想像の共同体にアイデンティファイするということになる。
世代という想像の共同体の存立には(少なくとも現代社会においては)マス・メディアの役割が重要である。昭和天皇の死にしても伯林の壁崩壊にしても地下鉄サリン事件にしても9.11WTCにしても、新聞やTVといったメディアを介して、直接現場にいなくても、同時的に共有することができる*2。また、視たTV番組、観た映画、聴いた音楽、読んだ本などが世代を立ち上げるとっかかりになることはよくあることだ。しかし、映像、音楽、書物などと世代との関係は考え直さなければならない。書物はそもそも世代を越えてしまう性質を持っているので、取り敢えず脇に置いておく。ここ数十年の間に、映像や音楽がやり取りされ・保存されるメディアには根本的な変化が起こっている(革命とはいいたくないが)。具体的に言えば、CDでありDVDであり、さらにはインターネットによるファイルの配信である。それまでは(主観的には)一回性の出来事として経験され、経験し終わった途端に〈空気の中に消えてしまう〉ものだった映画やTV番組を私有し、いつでも好きなときにプレイ・バックできるようになった。このことの弊害として、蓮實重彦先生が指摘する「動態視力」の衰退ということもあるのだが*3、それは措いておく。ここで指摘したいのは、見知らぬ他者と同時的に経験することの重要性の減少ということである。後で暇なときに観れば(視れば)いいでしょということ。さらに、新しいメディアのとりわけ初期においては、メディアとコンテンツの不均衡から、古い作品が大量にリイッシューされる。DVD屋でもアマゾンでも、私たちの目の前には古い作品も新作も無差別に情報が散乱しているので、例えば〈浩宮世代〉が中学時代に映画館でブルース・リーの映画を観たように、数十年後の現在のティーンエイジャーがDVDでブルース・リーを観ることも可能になり、作品と世代の関係は崩れてしまうことになる。作品と世代の緊密な関係が崩れて、それに変わって生まれるのは同じコーホート*4内部での夥しい教養の格差だろう。同じコーホートでも、例えばGeheimagentさん*5のように思わず師匠!と呼びたくなるような人もいれば、まったくそうではないという人もいるというふうに。だから、matsuiismさんが経験したことというのは「若い人たち」だからということではなくて、今言った新しいメディアの効果による教養の格差という可能性もある。

*1:http://www.jintan.co.jp/museum/index.html

*2:直接現場に居合わせることの重要性を軽視してはならないが。

*3:http://flowerwild.net/2006/11/2006-11-08_133443.php

*4:ここでは世代という言葉を使わず、出生年代が同じである統計学的・人口学的集団を意味するにすぎないコーホートという言葉を使う。

*5:http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/