身体性とtrope

承前*1

『認知社会学の構想』を取り敢えず読了した。
本書は日本語や英語ではなく仏蘭西語で書かれるべきであった。それはconstruction/constitutionということに関わる。
この本はさらに精読して、自分でも十分消化吸収していかなければいけないのだが、明日には合評会もあることだし、また時間もないので、『認知社会学の構想』に欠けているのではないかと思ったところを幾つか走り書きしておく。
身体性の問題。実は身体性の問題については、「認知社会学の限界」に関する最後の章で触れられてはいる。しかし、著者は身体性の問題を「カテゴリー化」「以前」の問題としているようだ(p.206)。しかし、「カテゴリー化」は常に身体性の準位において生起しているのではないか。私たちが世界内に存在する仕方、それは原初的には包み込まれる・巻き込まれるという仕方だろう−−雰囲気としての世界。その場合でも、私たちはカオティックな環境にいるのではなく、世界はそれなりに分節化されたもの、カテゴリーのアジャンスマンとして現れる。その秩序は決して心理学や生物学に委ねる問題ではなく、それなりの社会的脈絡において構成されてきた「認知社会学」の対象なのだと思う。例えば、tasteの社会的構成。cognitionの準位からrecognitionの準位へ進むこと、或いは生きられた「カテゴリー」から語られる「カテゴリー」へ。ここで重要なのは、この語る際に使用する言語はそもそも私にとって〈他者の言語〉であるということだ。それも、そもそも意味を持つのではなくて、使用される中で意味あるものとされてゆく。
「カテゴリー化」におけるtropicalな次元が考慮されていない。これはどのような仕方で「カテゴリー化」が作動するのかという問いでもある。tropeは辞書の意味としては言葉の綾、比喩であるが、ローマン・ヤコブソン以降、これはたんなる修辞(飾り)を超えて、意味作用(signification)の問題として展開されているのだと思う。「カテゴリー化」を問うことは、どのようにして/どのような一般項と個体との関係が生起するのかを問うことである。個体との何らかのtropicalな関係なくしては「カテゴリー」は存立できないし、私が私のカテゴリーを選んだり・押しつけられたりすることは、特定のtropicalな関係を選んだり・押しつけられたりすることである。tropicalな関係を問うことがなければ、カテゴリー論は静態的なものにとどまるだろうし、また「カテゴリー」の物象化を問う・撃つことも困難になるのではないかと思う。