連続性と死

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080707/1215446023


これを読んで、以前「ライブドア」騒動を〈スケープ・ゴート〉を殺す「カーニヴァル」に喩えて、


こういうお祭りが何か虚しいのは、民俗宗教における祭の動機が何よりも世界(宇宙)への配慮であり、世界(宇宙)の活性化が問題であったのに対して、こちらのモダンなお祭りの方で問題になっているのは、個人の心への配慮、個人の(疚しさ)からの道徳的浄化だからだろう。コスモロジーからサイコロジーへ、嗚呼。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060122/1137952844
と言ったことを思い出した。
さて、何故「連続性」が欲望されるのか。根柢的には誕生=世界への私たちの出現が母胎からの分離でもあることのトラウマという精神分析的洞察と関係があるのだろうか。また、それは自己、特に自己意識からの解放への欲望ということと関係があるのはたしかだ。
上に挙げた藤田氏の文章を読んで不満なのは、コスモロジーの準位、また身体論的な準位での議論を回避しているということである。後者について言えば、〈死〉という問題を回避しているとも言える。とは言っても、身体論的な水準で具体的に語ることが難しいということも事実であろう。例えば、生物学的に男性である私はセックスで女性が〈イく〉ということをどうしても実感できないし、宗教的には素人なので、宗教的な神秘体験や法悦体験もない。
「連続性」の究極的かつわかりやすい在り方は死であろう。死というのは自己(身体)/環境の区別が撤廃されてしまうことである(死ねば土に還るのだ)。自己からの解放或いはエクスタシーというのは、この究極的な死の方へ本当に行ってしまう危険があるので、十分に制度化された宗教においては、〈より大きな我〉に包摂されることによって、私たちは自己から解放されつつ自己を再建するということになる。勿論、このメカニズムによる搾取や支配といった問題はあるわけだが、ここではスルーする。また、諏訪の御柱にしても岸和田のだんじりにしても、祭りの身体の快楽が死の危険と一体のものであることは(第三者的にも)明らかだろう。ここでもその危ない快楽は地域共同体の中で〈男〉として名を上げるといった仕方で、やはり〈より大きな我〉に包摂されることになる。
ということで、暴走族や戦闘的なデモ(警察権力との花いちもんめ?)はエロティックな祭りとして認めることができよう。しかし、それと同じ資格で、2ちゃんねらーによる「祭り」は「祭り」と言えるのだろうかと疑問に思う。それは何よりもその人たちが死の危険を引き受けていないからだ。そもそも〈名無しさん〉というのは死ぬことの不可能性ではないか。
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070414/1176566437