12月16日は片桐雅隆『認知社会学の構想』*1の合評会*2。
この合評会についてはいずれ書く。今回はここで入手した書物等についてのメモ書き。
『コロキウム 現代社会学理論・新地平』創刊号(特集「グローバル化とアジアの社会学理論」)、東京社会学インスティチュート、2006
コロキウム―現代社会学理論・新地平 (No.1(2006年6月))
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- 作者: 東京社会学インスティチュート
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聞きまくり社会学―「現象学的社会学」って何? (ist books)
- 作者: 西原和久,岡敦
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シュッツ『社会的世界の意味構成 理解社会学入門 [改訳版]』(佐藤嘉一訳)木鐸社、2006
- 作者: アルフレッド・シュッツ,佐藤嘉一
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1982年に初訳が出てから24年目の改訳版。装幀も一新されている*3。木鐸社にしては精一杯お洒落してみましたという感じのデザイン。新たに10頁に亙る「改訳版 序」が収められている*4。主な訳語の改正は
Handeln 経過としての行為→遂行的行為
Handlung 行為結果→達成的行為
Zuwendung 配意→注意作用
Mitwelt 同時世界→同時代世界
Vorwelt 前世界→先代世界
Nachwelt 後世界→後代世界(「改訳版 序」、p.10)
というところか。
「改訳版 序」は、シュッツは「超越論的自我群のモナドロジー、つまり個人実体主義に安住している」(廣松渉)、「現象学の社会的行為論への導入は、フッサールの強い内面的個人主義からして、個人主義のディレンマを解決し得ない」(アレクサンダー/富永健一)といった「シュッツ批判の「十字砲火」の真只中で「では今、なぜシュッツなのか」ということ」(p.12)を宣明することを中心としている。佐藤先生が自ら要約するところによれば、
ということである。第一の点については取り敢えず省略して、第二の点についていえば、その中心は「中間領域の学」としての「自然的態度の構成現象学」について論じられている。曰く、
第一に、『意味構成』以前に既にシュッツ自身が「モナドロジー論」や「ソリプシズムの牢獄」を破棄する「社会学」的認識の水準に到達していること。第二に、『意味構成』以後「フッサールの超越論的現象学」の根本問題が解決不能な問題としてシュッツはこれを破棄していること。第三に、この前後の脈絡に照らして『意味構成』を読み解くことが、専らテクストに閉塞する「コンテクストからの自由な読み方」に比較して「より合理的」であろうということである(ibid.)。
また、
中間領域は、「内世界的な間主観性の諸現象」に関係する文化科学と社会科学と「超越論的現象学」との間にまたがる領域として定められ、その領域の学問は「自然的態度の構成現象学」と呼称される。一方における文化科学・社会科学と他方における狭い意味でのフッサールの超越論的現象学との2つの学問に対する「距離」と「位置」関係のとり方に、シュッツの理論的立場をみることができる。2つの極端の知を求心化させる第三の知、「中間領域の学」の提唱である(p.15)。
ところで、最近の私の関心からして、『社会的世界の意味構成』というタイトルについての
『意味構成』以後のシュッツのスタンスは、見たように、「安易な個人実体主義」でもなければ「内面的個人主義」でもない。フッサールとの関係で言えば、シュッツの理論の独自性は、フッサールの超越論的現象学に見られる「内面的個人主義」に基礎をおいているというよりも、この内面的個人主義の「限界性の自覚」から始まっているといわねばならない*5。『意味構成』以前のシュッツに触れた際に、シュッツは日常実践の行為領域「行為する私」や「君が関係する私」の社会性、「語る私」の言語的世界などを視野に入れている点で*6、フッサール現象学とは際立ってその出発点を異にしている。フッサールには「社会」に関する考察が乏しい。フッサールの超越論的現象学の「間主観性」の問題は、いかにして君は私の中で構成されるかの問題、私が近づき得ない他者の意識の流れにおいて行われる体験の理解可能性の問題である。もっと正確には「超越論的自我」における他者――「非−我」Nicht-Ichとしての君――の構成の問題である。シュッツの結論は、これは「問題提出の誤謬」であり、回答不能の問いというものであった(p.17)。
という指摘も興味深い。
原題の標題Der sinnhafte Aufbau der sozialen Weltは、結局そのままにした。シュッツは’sich aufbauen’[おのずと盛り上がる]という語を用いており、’aufbauen’[機械的に何かを組み立てる]の用法は少ない。「社会的世界の構造」(第4章)は、わたしの〈主観的見地〉からみれば、〈デュレ〉の流動を本源的権利根拠にもつ意識の〈反省的注意〉と〈反省変様〉によって常に構成され、脱・再構成される〈意味〉のおのずからなる沈殿層の〈盛り上がり〉、すなわち「意味的構築体」である。〈自己〉のうちにおのずと沈殿され、多元的に幾重にも層をなして築き上げられる意味的構築体は、発生論的にみれば、意味の〈構成作用〉konstituierender Aktによるものである。社会的世界の構造を重視する〈社会的世界の意味構築体〉の議論も軽視できないが、社会的世界の「構造」の発生論的構成の問題も大事なことだ。本書の旧訳におけるこのような読み方の〈精神〉を活かして今回も「社会的世界の意味構成」としたのである(pp.10-11)
なお、副題は旧訳の「ヴェーバー社会学の現象学的分析」から「理解社会学入門」に変更されている。この副題変更は議論の余地があると思う。「理解社会学再入門」がベターか。
佐藤先生にサイン貰うの忘れた!
山崎敬一、川島理恵、葛岡英明「エスノメソドロジー的研究をいかに行うか」『ヒューマンインターフェース学会誌』8-4、2006、pp.223-228
斜め読みした限りでは、第3節(pp.226-227)で叙述されている「会話分析」のトレーニングにおける「データセッション」の意味が興味深かった。