大木金太郎からビンゴ河野へ

プロレスラーの大木金太郎氏が亡くなったという。勿論、名前は知っているし、その後韓国に帰ったことも知っているが、その後の足跡については知るところではなかった。また、本名も今まで知らなかった。


波瀾万丈頭突き人生、大木金太郎さん死去

 1960年代から70年代にかけて強烈な頭突きで人気を博した元プロレスラー、大木金太郎(本名・金一)さんが26日、心不全のため韓国・ソウル市内の病院で死去した。77歳だった。大木さんは韓国から密航して力道山日本プロレスに入門。得意技「原爆頭突き」で故ジャイアント馬場アントニオ猪木らと名勝負を繰り広げた。82年に韓国に戻ったが、10年以上前から頭突きの後遺症と糖尿病、内臓疾患などに悩まされ療養生活を送っていた。
 大木さんの代名詞でもあった頭突きが皮肉にも、寿命を縮める原因になった。10年以上前から頭突きの後遺症による脳血管疾患などに苦しみ、入退院を繰り返していた。最近は車いす生活で、体重は全盛期の130キロから半減。25日朝、危篤に陥り、この日力尽きた。
 力道山にあこがれ58年、漁船で日本に密入国。逮捕されたが、拘置所から手紙で力道山に身元引受人を依頼し、日本プロレスに入門した。その後は馬場、猪木とともに三羽がらすとして活躍。日本プロレス崩壊後は、新日本、全日本、国際と渡り歩き、頭突きを武器に、猪木や馬場と名勝負を繰り広げた。
 「覚悟して玄界灘を越えてきたのなら、どんなつらいことがあっても我慢しろ」。入門の日の力道山の言葉は忘れたことがなかったという。「原爆頭突き」が生まれたのも恩師のおかげだった。ある日、ガラスの灰皿で頭をたたかれた。「痛かったけど、痛いって顔はできませんでした」(大木さん)。平然としていたら、力道山から「これからは頭突きだ」と進言された。同じ朝鮮半島出身の恩師は人生の師でもあった。
 力道山とは対照的に、大木さんは早くから朝鮮半島出身を公言し「韓国の猛虎」とも呼ばれた。63年12月の力道山死後は、師匠の夢を実現するため、母国のプロレスの発展に尽くし、82年の帰国後は国民勲章を受章するなど「韓国の力道山」になった。
(日刊スポーツ) - 10月27日10時2分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061027-00000027-nks-spo


大木金太郎
本名 金一(キム・イル)
1929年(1933年説あり)2月24日 韓国・全羅南道出身
185cm 122kg
58年に韓国南部の麗水から漁船に乗って日本に密入国。横浜で働いていた。59年、日本プロレスに入門の許可をもらうが、入管法違反で逮捕された。力道山に助けを求め、力道山を身元引受人として釈放される。7月に日本プロレスに入門。11月にデビュー。63年9月にアメリカ遠征。12月にミスター・モトと組んでWWA世界タッグ王座を獲得。65年に韓国に行き、8月に大韓プロレスの極東ヘビー級チャンピオン決定トーナメントを企画。決勝で芳の里を破り初代極東ヘビー級王座を獲得。11月には5カ国対抗プロレス選手権も企画。韓国のプロレス界のリーダーとなった。日本プロレス時代には、インターヘビー、インタータッグ、アジアヘビー、アジアタッグなどのタイトルを獲得。67年6月、韓国・ソウルでマーク・ルーインを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得。7月28日、ロサンゼルスでマイク・デビアスに敗れてWWA世界ヘビー級王座を失った。73年4月の日本プロレス崩壊後は全日本プロレスに参戦。同年末に離脱してフリー宣言。新日本プロレスに登場し、猪木と対戦し、熱戦の末に敗れた。75年4月、ワールドリーグ戦に参加。10月には全日本プロレスに再登場し、馬場とノンタイトル戦で対戦。ジャンピング・ネックブリーカーにあっけなく敗れた。馬場の楽勝の背景には、猪木との実力の差を見せつける狙いもあったようだ。76年10月と77年11月にタイガー戸口と組んでインタータッグ王座を獲得した。国際プロレスにも登場したが、80年8月より三たび全日本プロレスに登場。インターヘビー級を全日本プロレスに返上し、そのかわりにアジアヘビー級を獲得。81年11月5日が日本における最後のファイトとなった。その後は韓国に戻る。82年5月にアジアヘビー級タイトルマッチで阿修羅原と対戦し勝利。94年4月に韓国で国民勲章石榴賞を受賞。95年4月2日、東京ドームにおける「夢の架け橋」で引退式が行われた。06年10月26日、慢性腎不全症などのためソウル市内の病院で死去。
タイトル歴 WWA世界タッグ 極東ヘビー インターヘビー インタータッグ アジアヘビー アジアタッグ WWA世界ヘビー
得意技 頭突き
http://kuro.pinoko.jp/pro/w120.htm
さて、「頭突き」というと昨今はジダンということになるのだが、私の世代にとっては、「頭突き」といえば、大木金太郎よりも東京ボンバーズのビンゴ河野である。といっても、ぴんと来ない人も多いのではないかと思う。ローラー・ゲームというスポーツ自体が1970年代前半の数年間ぱっと盛り上がって、また忽ち凋んでいったものだからだ。盛り上がったといっても、TV放映も当時の東京12チャンネルだったので*1、日本全国ということだと、寧ろ視ていない地域の方が多かったのではないかとも思う。実際検索をかけても、ローラー・ゲームをネタに盛り上がっているのは、1955年から1965年の10年間、つまり昭和30年代に生まれた人間が主だろうという感想を得た。主力選手といえば、河野のほかにミッキー角田とヨーコ佐々木だろうか。「日米対抗」と銘打って、「日本代表」である東京ボンバーズ*2が米国勢を迎え撃つという仕方で、大柄な米国人を(「牛若丸」と称された)ミッキー角田が軽妙に出し抜き、悪辣な米国人に対しては、(元関取である)ビンゴ河野の正義のヘッドバットが炸裂するというふうに、今思えばけっこうナショナリズムしていたのだ。その後、東京ボンバーズの名前を聞いたのは、1980年代に光GENJIが登場したとき。あのローラー・スケートをプロデュースし・指導していたのが東京ボンバーズの面々だったのだ*3。その後の消息は知らなかったが、http://blogs.yahoo.co.jp/sharp_and_witty/12157853.htmlによると、1990年代に入って、ローラー・ゲームが復活したということらしい。それから、http://plaza.rakuten.co.jp/GONBO38/diary/200510040000/によると、最近アメリカでも復興の兆しがあるという。

*1:実況は土居まさる、解説はミッキー安川

*2:「代表」とはいっても、それ以外にティームがあったかどうかは知らない。

*3:http://blog.livedoor.jp/vivit2006/archives/50258706.html。このblogは「船橋」という超ローカル性故に興味深い。