「公民」

承前*1

公共性の危機は公共性の語られ方に現れる。それは日本に限ったことではない。西洋においても、publicとofficialは混同され続け、それと即応するような仕方で、〈公〉は〈官〉に簒奪され、つまり〈公〉は(本義における)公といえるものでは既になくなっている。http://d.hatena.ne.jp/gushoukuuron/20061003/p1に付せられた以下のコメントなどは、そのような〈危機〉、正確に言えば危機が長引きすぎて日常に浸み込んでしまい、つまり慢性化して、危機だとも思われていないような危機、或いは危機の危機の症候以外の何物でもないだろう;


# 布引洋 『市民対庶民の対比は面白いですが、庶民だけではなく公民を考えては如何でしょうか。?
市民にとっては自分自身と公(おおやけ)は対立する概念です。
公民にとっては公は自分自身なのです。対立する筈が有りません。
公民にとっては政府の意に反する個人(市民)は自分にとっても意に反する存在です。
君が代斉唱強制に反対する教師や、イラクで人質になる反戦活動家などは当然バッシングの対象になります。
市民の考える社会とはピラミッドのような三角形になっていて頂上が公で、底辺の大きな部分を占めるのが市民です。
公民にとってはこの三角形は逆立ちしていています。
公と私は同一なので頂上部分は巨大な逆転した公民なのです。
この逆三角形では一番底辺に小さな個人が存在するのです。』 (2006/10/10 12:16)
そもそものエントリーは、「市民」と「庶民」の対比について論じているもの。これについては、たしかに現在のcommonsenseによって構成され生活世界においては「市民」という言葉も「庶民」という言葉もこのように意味賦与されている*2んだなと頷くことができる。それに対して、このコメントである。先ず、「公(おおやけ)」というのは個人と対立するものでもないし、一体化するものでもない。だって、実詞ではないんだもの。それはたんに〈開かれて在る〉という状態を示すものにすぎない。なので、常に抽象名詞としてしか捉えられない。或いは、個人の振る舞いの仕方を指示する副詞として顕在化する。これは英語のpublicだけがそうだということじゃなくて、日本語の「公(おおやけ)」にしたって、そうだ。「おほやけ」というのは、通常動詞「する」と結合して「公にする」という複合動詞をかたちづくる、形容動詞の連用形、つまり副詞的な用法として使うからだ。また、或いはpublic sphere、つまり開かれた場所として考えても、これが個人と対立したり一体化したりするものではないことは明らかだろう。「自分自身と公(おおやけ)は対立する」? そんなの、まず思い浮かぶのはヒッキーだ。それはともかくとして、個人が開かれた場所と「対立」した状態に置かれているとしたら、それは排除されているということであり、それこそ大問題だ。さらに、「公」と「政府」が勝手に同一視されているが、これは冒頭で述べた「〈公〉は〈官〉に簒奪され、つまり〈公〉は(本義における)公といえるものでは既になくなっている」ということをそのまま追認するものにほかならない。さて、「公民」という言葉は日常生活ではあまり使わない。思い浮かぶのは、中学社会科の1分野としての公民。それと、これは重要であるが、米国のCivil Rights Movement*3公民権運動と訳され、定訳となっていることである。それを考えれば、commonsenseに反してまで、「公民」にこのような意味賦与を行うことには、歴史とか伝統といったものに対する一種の鈍感さがある。また、これも「公共性の危機」の症候のひとつなのだろうが。