美学的な準位は?

〈デモ〉についての議論が盛んなようである。例えば;


 http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20060805/p1

 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060806/p1

 http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060806/p1


ところで、鹿島拾市さんは「「デモが起こるということはその国が政情不安定ということを意味している」(嫌韓本『韓国人につけるクスリ』)などという、ソウルはもちろんパリでもシアトルでも通じない「常識」がまかり通る国になってきた今、国際主義はますます重要になる」*1と述べているが、これって既に「常識」なんでしょうか。
話を戻すと、デモというのは「耳障り」であってもいい、さらに極論すれば、「耳障り」でなければいけないともいえるのではないか。少なくとも、美学的な準位においては。
デモというのは、歩いたり叫んだりというパフォーマンスによって、集合的な主張を行うということだろう。だからといって、それだけでその「主張」が実現するわけではない。では、デモというのは自己満足というか、言いたいことを言ったぜというカタルシスなのか。別にそれでもかまわないとは思うのだが、取り敢えず考えられる効果はといえば、社会的空間を異化・非日常化するということであろう*2。それによって、それに触れた人々が生きる自明性に亀裂が走り、思考へと追いやられる、或いはその亀裂がトラウマ的にその人たちの心に棲みついてしまう。ある種のエポケーを強制すること。非日常性というのは、日常性との差異においてしか存立しないのだから、音・声でいえば、非日常化を実現するためには、ミニマムな方向、沈黙へと向かう方向(ジョン・ケージか?)或いはノイジーな方向に向かわなければならないというのは、わかりやすいことだ。杉田さんが述べる「百鬼夜行」を、音において表現するとこうなるんじゃないだろうか。また、訪れは音・連れであり、音(ノイズ?)なくしては非日常的なるものは降臨できない。
勿論、日常性というか〈常識〉というのはしぶといもので、日常や〈常識〉を包摂しながら存立している。日常/非日常を巡る細かい議論はスキップすると、〈想定内〉とされた「耳障り」・目障りは日常性への脅威を構成しない。「左翼系の人々の声って、なんであんなにうるさくて、耳障りなんだろうか」というのは、もしかしてこのことを指しているのだろうか。それとも、「「過激」さ ウケる社会」(辻大介*3というのとは裏腹に、今日の日常性というのは脆弱化してしまっていて、少々の「耳障り」・目障りにも敏感になってしまうということなのだろうか。
ところで、猿虎さんは「、「いわゆる左翼系」と言ってたぶん多くの人がイメージする、60年代、70年代の日本の「新左翼」のスタイルは、大変ユニークだったのだと思います」と述べているわけだが、あのリズムはお祭りのレヴェル。御神輿とデモといえば、何といっても延暦寺の僧兵である。僧兵たちはどんなリズムで御神輿を担いでいたのか。あの当時、例えば念仏にしても、現代の念仏とは違うリズムだっただろうということは推測できるわけだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kaxima/20060807

*2:それはデモにおける〈すごくゆっくりと歩く〉という所作にも現れている。

*3:http://www.d-tsuji.com/paper/e05/index.htm