だって日常ではないから

「「終わりなき日常」今は 社会学者・宮台真司さんに聞く」http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201106270119.html


宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』という本には2回言及している*1。それ以外にも「終わりなき日常」という言葉が言及されているエントリーが3つあった*2。それはそうとして、宮台氏が「終わりなき日常」という言葉を使っていたのは「96年までの約1年間だけ」だったのか。使わなくなった理由は(氏が言うように)渋谷から「『まったり』できる特別な空間が消え」ただけではないだろう。しかし、これについて詳論する余裕はここではない。「終わりなき日常」というのが重要だったのは(また今でも重要であるのは)、それが「日常」を終わらせ、「日常」がちゃらになった廃墟において(理想世界としての)ユートピアを立ち上げようとする終末論的思想の対極だったからだろう。オウム真理教は幼稚な仕方でそれを生きてしまったというわけだ。ただ、「まったり」した「終わりなき日常」を維持するのは、例えば(宮台氏のいう)かつての「渋谷」というような仕方で〈社会〉から場所を与えられることによってではなく、或る種の「スキル」の習得であろうとは思うけど*3

宮台氏は「終わりなき日常」という言葉は使わなくなったものの、

 「いや、終わりなき日常が永遠に続く、という現実認識自体は変わっていません。その意味では終わりなき日常は全く終わっていない。震災を経た今も、です」
という。これは正しいとは思うが、一見すると、その次の、東日本大震災後の変化についての、

「従来意識されずに来た問題がさらけ出され、多くの人に認識されたという変化はある。一つは疎開問題です。逃げられる人は逃げ、残っているのは逃げられない人。東京で現実化した問題ですが、福島ではより深刻に現実化しています。疎開の可否を分けたのはソーシャルキャピタル、つまり人間関係資本の有無だと見ます。支えあえる友人や親類などを持つ人と持たない人。震災は、すでにあったその格差を見せつけた」
という発言と齟齬を来しているようにも見える。「終わりなき日常」といっても、そこではのっぺら棒のように一様・均質な「日常」的時間が流れるわけではあるまい。「終わりなき日常」にもケの時間とハレの時間があり、また病める時も健やかなる時も、貧しき時も富める時もある。「終わりなき日常」とは、(時間論的に言えば)こうした〈日常的〉時間の中断(非日常)が「日常」の終了(カタストロフ、或いはブレークスルー)を意味するのではなく、大きな円環的な時間の中に取り込まれてしまうような時間の在り方ということになるのだろう。その意味で、ここではどんな非日常であっても、謂わば日常化された非日常ということになる。別の言い方をすれば、「日常」はあくまでも中断するのであって、そこからまったく別の新たな時間が開始されるのではなく、暫くしたらまた再開されるわけだ。
そうはいっても、震災や原発事故が「日常」の中断としての非日常であることに変わりはない。それから、そのような非日常において「人間関係資本」の格差が表面化するというのは当然といえば当然である。「日常」において「人間関係資本」を意識せずに、また最低限の「人間関係資本」だけで生きていけるのは市場経済と官僚制のおかげである。市場経済や官僚制が機能不全に陥る事態、これらの制度の手に余る状況を非日常というなら、非日常において私たちは自らの「人間関係資本」を頼りとせざるをえない。宮台氏は社会学的処方箋として「社会のスタイルを『統制と依存』から『自治と参加』へ切り替えていくこと」を提言しているのだが、さてどうかな。この提案がそれ自体としていいことであることは言うまでもないが、これと個々人の「人間関係資本」を増強していくこととのリンケージが見えにくいような気がする。多分鍵は「まったり」した「終わりなき日常」を如何に充実させるかということにあるのだろう。因みに、「まったり」はたんに脱力的であるだけでなく、或る種の濃密性をも意味しているわけだが。
日常」を終わらせ、「日常」がちゃらになった廃墟において(理想世界としての)ユートピアを立ち上げようとする終末論的思想ということで、思い出すのは、「希望は戦争」のかつての赤木智弘かも知れない*4。赤木氏の主張それ自体が「終わりなき日常」への苛立ちや反発だったともいえるのだが、勿論赤木氏は今回の地震を巡って俺の主張が実現した!! などとは全く言っていない。それどころか、Yellowkittyさんによれば、「震災を『希望』にするな」と「日常」がちゃらになった廃墟において(理想世界としての)ユートピアを立ち上げようとする終末論的思想への警告を発している*5。Yellowkittyさんが「大言壮語」の一例として槍玉に挙げているのは内山節*6だが、内閣官房参与松本健一にもそういうところが垣間見える*7。成熟する赤木氏、退行する老知識人。